熱帯夜

 眩暈がするほどに熱い今年の夏は、夜になっても決して過ごしやすいとは言えない。日中に生卵を落とせばそのまま目玉焼きができそうなぐらいに熱されたアスファルトは日が暮れた後もその熱を保ち、真夜中も背中にじんわりと汗をかかせる原因となる。特にその日は寝苦しい熱帯夜で、身体にまとわりつくような不愉快な熱気がどうにも嫌になったは日付が変わってから少し経った頃こっそりと家を出た。
 寝間着のTシャツにショートパンツそのままで外出するのも難だから、下だけジーンズに履き替えて薄手のパーカーを羽織る。外に出ると、風が吹いている分部屋にいたときと比べてほんの少しだけ息苦しさが和らぐ気がした。
 さて、どこに行こうか。特に買いたいものは無いけれどコンビニに立ち読みでもしに行くか、それとも家からすぐ近くの公園にでも行ってベンチでぼんやりと涼むか。少し迷ったけれど、公園の方へ向かうことに決めた。コンビニは昼間でも行けるけれど、公園は暑い中普段行かないし。1人でそう納得して、家から公園への短い道を歩き始めた。

 当たり前と言えば当たり前だけれど、家から数分ほどの公園には誰もいない。すべり台、ブランコに砂場、そして水道とベンチだけがある小さな公園。昼間は小さな子供たちとお母さんたちで賑わっているそこは、真夜中の今はまるで雰囲気が違う。夜の公園という響きはなかなか惹かれるものがある、なんて思いながら静かな場所へと踏み入った。
 公園の入り口から真っ直ぐの突き当たりにあるベンチはひんやりと冷たい。そして硬い。しばらくの間特に何をするでもなくそこに座り入り口とそこから続く道路を眺めていたが、響く足音から誰かが公園を横切ろうとするのに気付きじっと目をこらす。入り口すぐ近くの街灯に横顔が照らされて、思わず目を丸くした。

「諏訪!」

 大きな声での呼びかけに立ち止まった明るい色の頭がこちらを向く。咥えタバコをした諏訪はが手を振るのを見てあんぐりと口を開けた。

「今日諏訪隊防衛任務だっけ?」
「お前何してんだこんな時間にこんなとこで」

 偶然会えるなんて運が良いな、ぐらいのことを呑気に思っていたんだけれど。足元に落ちた吸い殻を拾って乱暴に携帯灰皿へと押し込みこちらにずんずんと歩いてきた諏訪は質問を無視して肩を掴んだ。ベンチに座ったままのを見下ろす顔は険しい。

「熱帯夜だからさ~、寝つけなくて! 家出てきちゃった」
「……いつもこんな時間に出歩いてんのか」

 ひそめられた眉にぎくりとする。元から決して良くない人相が盛大に上がった眉のせいで更に悪くなっている。まずい、と思って反射的にへらりと笑顔を作った。

「いや、いつもじゃないよ。これが初めて」

 ひらひらと手を振っての返事に疑わしげにの顔を見つめながらも、諏訪は肩から手を離してどかりと隣に座った。眉は未だ険しい。

「どうすんだよ変な奴いたら。危ねーぞ」

 もっともな言葉のように聞こえるけれど、諏訪は大事なことを忘れている。胸を張って答えた。

「トリガー使えば大丈夫だって」
「一般人にトリガー使えねえだろ」
「いや、別に応戦するんじゃなくてもさ。ベイルアウトすれば一瞬で本部に逃げられ……あっトリガー持ってくるの忘れた」
「お前なー!!」

 ジーンズのポケットに手をやろうとしたところで気付いてそう言うと、頭をつかまれぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回された。容赦ない手に思わず悲鳴を上げる。
 何も考えずに出てきてしまったからトリガーホルダーもスマホも財布も持ってきていなかった。かろうじて家の鍵があるだけだ。

「マジでざけんな! 危ねーだろうが!」
「ごめんごめん、今度からは肌身離さず持ち歩きます!」

 休日の非番時でも学校にでも、トリガーホルダーを常に携帯するのはボーダー隊員としての義務だ。本部の誘導装置は非常に優秀だけれど、非常事態はいつでも起こりうる。隊員としていつでも動けるようにしていなければならない。今回はぼーっとしてて忘れてしまったけれど気を付けないと。反省しつつ慌てて謝ると、諏訪は何故か「そういう問題じゃねえ!」と更に声を荒げた。

「女が! 深夜に出歩くのは危険だっつー話をしてんだよ俺は!」
「トリガーあっても?」
「起動する前に後ろから殴られたりして気失ったらどうすんだ? なんにもできねーだろ!」

 眉間に皺を寄せての言葉にぞっとした。諏訪の言う通りだ。トリガーは必ずしも「トリガーオン」と口にしなくても起動の意志さえあれば起動できる。しかし、不審者に気付く前に意識を失ったら意思さえ持てない。
 今更怖くなって黙りこくると諏訪は少しだけ表情を緩めての頭から手を離した。ぼさぼさにされた髪を無言で直す。

「もうこんな時間に出歩いたりすんなよ」
「うん」

 少し強めに肩を叩かれて頷いた。低い声にさっきまでみたいな厳しいトーンはもう無い。この微妙に雑だけど優しいところが諏訪らしい、なんて少しほっとしつつ思った。
 帰るぞ、と言われてベンチから立ち上がる。歩き始めると同時にペタペタと気の抜けた音を立てるの足元を見て、諏訪は呆れた顔をした。仕方ないじゃないか……靴下を履きたくなかったからビーサンで来たんだ……。

「……寝つけなかったら、俺に電話でもしろ。任務中じゃなきゃ出てやる」
「やっさしー……良い同期を持ったよは」

 自分の家は反対方向なのに、公園を出ても当たり前のように隣を歩きの家の方向に向かう諏訪は本当に優しい。諏訪も風間もレイジも雷蔵も、同期は皆本当に良い奴だけど諏訪はなんだか特別優しい。こんな時間に外にいたら全員家までは送ってくれるだろうけど、その上電話していいなんて言ってくれるのは多分諏訪だけだ。しみじみと呟くと隣の男は少しの間黙りこくった。

「……ただの同期でいいのか」
「は?」
「あー……なんでもねえ。眠くて変なこと言ったわ」

 がりがりと刈り上げた頭をかいての目を避けるように俯いた顔の表情はよく見えない。覗き込みたい衝動を抑えて相槌を打った。

「夜間任務は疲れるもんね」
「ああ」

 どこかふてくされたような、ぶっきらぼうな短い返事が愛しくてひっそりと笑った。も馬鹿なわけじゃない。優しすぎるくらいの行動に、もしかして両思いなんじゃないかと気付いたのはだいぶ前の話だ。
 我ながら意地悪な気もするけれど、男らしいのに恋愛が関わると途端に奥手で古風になるところも好きだから、もう少し勇気を出してくれるまでわざと気付かないふりをしようと思う。の好きな人は男らしいのにかわいいのだ。