10. おでん

「おでん、食べたいなあ……」

 年の終わりが近い。ぐっと陽が短くなって、外の風は身を切るように鋭さを増している。寒さもろくに感じない身体となってしまったけれど、それでも季節が変われば名残のようにその時々にあったことをしたくなる。今咄嗟に思い浮かんだのは、鰹出汁と醤油で味付けをした里芋やこんにゃくだった。

「お腹すいてはるの?」
「あ!」

 心の中で呟いたと思っていた言葉はどうやらぽろりと漏れ出ていたようで、ソファの隣に座る美智子に優しく問いかけられる。なんだか恥ずかしくなってしまって勢い良く頭を振った。

「違うの、なんだか外を風が吹いてるのを見たらぱっとおでんが思い浮かんでしまって」
「そうやったの。この頃えろう冷えるものねえ」

 出身地を同じくする美智子だったからまだ良かった。ヴィオレッタやマリーであったら困惑させてしまっただろう。美智子は優しく微笑んでくれたけれどまだ少し恥ずかしい。時計を見ればちょうど自分のマッチの時間が近づいていて、これ幸いとばかりに立ち上がる。

「ごめんなさい、そろそろマッチの時間だから行かなきゃ」
「おはようおかえり」

 京ことばに笑顔を返して、サバイバー4人が待っているはずの晩餐会場へと向かった。

 美智子とそんな会話をして、1週間ほど経ったある日だった。何か飲み物でも、と思い自室を出て広間に来たところで澄んだ声で名前を呼ばれた。きょろきょろとするとキッチンの方から美智子が手招きしている。同じ方向から漂う空気は、どこか懐かしい香りが微かに混じっている気がした。
 美智子の美しい細面が浮かべる笑顔はどこか悪戯っぽい。普段から優美な雰囲気を崩さない彼女がそんな表情をすると、触れがたい一輪の花が綻ぶようで、ひどくあどけなく、幼く見えた。 近づいてきたに「ほら」と彼女は隠していたキッチン・ストーブを見せる。コンロの上に乗っていたのは小さな土鍋だった。

「おでんだ……!」
「こないだ食べたいて言ってはったやろ。主さんに頼んで材料を揃えてもろたんよ」
「わざわざ? そんな、凄く嬉しいけど申し訳ない……! ごめんなさい」

 びっくりしてしまって慌てて謝ると美智子はええの、と首を振る。自分も食べたかったのだからと微笑む姿はとても嬉しそうだった。

「江戸では醤油で煮込みはるやろ。うちの方は出汁と昆布で煮込むんよ。来たばっかりの時には驚いたわあ。揃えてもろた後に思い出したさかい、うちの方の味付けになってしもてほんま堪忍なあ」

 ああ、だから、と立ち上る匂いに納得する。美智子は上方の出身だ。あちらでは濃い味付けはしないと聞いたことがある。よく見れば牛スジも入っていて少し驚いたけれど、ぐつぐつと音を立てて煮えるおでんはとても美味しそうだった。

「謝らないで、すごく美味しそう……本当にありがとう」
「そう言ってもらえて嬉しいわあ」

 香りは、強く記憶と結びついている。薄口の出汁と昆布の匂いは痛いほどに郷愁を呼び起こした。今は遠い、異国の香りだ。

 美智子もも故郷に戻ることは、恐らくもうない。その機会も、戻る場所も。少しずつ己の核は人ならざるものへと変わっていき、得体の知れない何かが本性になっていく。もしかすると、この懐かしむ感情もその内なくなってしまうのやも分からない。けれども今だけは遠い日を、場所を想い、故郷の味に舌づつみを打っても許されてほしい。そんなことを思いながら、二人で笑いあった。