熾火

もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きず、火が消えることもない。

マルコによる福音書 第9章47~48節

「地獄を見た事はある?」

 寡黙なノートン・キャンベルは、行為の後には普段よりも少しだけ饒舌になる。
 こうした時に彼の言葉が口からこぼれやすくなるのは、己の体の奥底に澱む形にならない孤独を薄い膜越しにの中へと吐き出して、少し心を軽くしているからなのかもしれなかった。
 2人で荒い呼吸を分け合い同じ頂点を目指す行為も好きだったけれど、実は、その後にこうして砂漠に砂粒をひとつずつ落とすようにぽつりぽつりと低い声で紡がれる彼の言葉を聞く方がもっと好きだった。

 宗教家のようなことを聞いたノートンは、静かにを見つめている。暗い色をした瞳を見つめ返して何も言わずにゆっくりと瞬きをすると、彼はまた口を開いた。

「地獄は……俺の地獄は、熱いんだ。熱くて、焦げ臭くて、黒と橙と赤で染められてる」

 ノートンの声には、感傷も何も無い。ただ目にした事実を淡々と述べる様な口調に、も同じように頭に浮かんだ単純で素朴な感想を口にした。

「苦しそう」
「苦しいさ。息苦しくて、その苦しさから逃れようと肺いっぱいに空気を吸うと、もっと苦しくなる」

 何かを思い出すように瞳が瞼に隠されて、伏せられた睫毛が追憶に浸るようにかすかに震える。色の違う左目の周りの皮膚は右目側とは異なる引き攣り方をして、顔の左右が少しだけ歪む。脳髄の奥に染み付いた記憶を反芻しているのが、瞼の下で眼球が動くのから見て取れた。
 少しの間黙った後ノートンは目を開いて、低い声に先ほどよりかすかに感情を混ぜて言葉を続けた。

「……だから、ずっと涼しい場所に行きたいと思ってた。涼しくて、楽に息ができる場所」

 涼しくて、楽に息ができる場所。咄嗟に頭に浮かんだのは、この荘園で行われている終わりのない鬼ごっこの舞台の一つである軍需工場だった。けれどあそこは涼しいというよりは震えがくるほどに寒いし、執拗に後を追うハンターのことを思えば恐怖が影のように自分の後ろをついて回って、決して楽に息ができるとは感じない。
 涼しいというのなら、例えば湖や海のような水のあるところだとか? いや、水があれば息苦しさは消えないか。なかなかに難しい。
 には簡単には思いつかないけれど、ノートンは既に答えを見つけているのだろうか。探るようにノートンを見ると、彼はの頬に手をやって輪郭を確かめるようになぞってから目の下、頬骨の辺りに軽く親指を当てて視線を合わせた。

の目は涼しいって、初めて会った時から思ってた」
「……?」

 思いもしなかった答えに面食らって聞き返すと緩い動きで頷きが返ってくる。

の目、そんなに爽やかな色はしてないと思うけど」
「色の話じゃない」

 おもむろにかぶりを振るノートンに当惑する。

「分からないなあ」
「それならそれでいい」

 特に憤ることも説明することもなく、ノートンはの困惑を受け入れた。彼は揺るぎない確信を持っているようだったが、当のには全く理解ができなかった。の目はエマやマイクのような明るく澄んだ色はしていない。

「……息も楽?」
「ああ」

 もう一つの条件にもすんなりと同意が返ってきて、ますます訳が分からなかった。一体という人間のどの辺りを涼しく、そして呼吸ができると感じているのだろうか。
 無言で考えるを見て、ノートンは静かに息を吸った。周りの空気を取り込むのに厚い胸板が膨らんで、ついで二酸化炭素を吐き出しながら元に戻っていく。そのゆっくりとした呼吸を見ていると、つられるようにの呼吸も深くなっていく。まるで彼の思うことを形にして見せようとするかのような深呼吸に少しだけおかしくなった。

「……そう」

 にはまるで分からないけれど、ノートンがそう思うならばそれでいいのだろう。は何も迷惑を被っていないのだし。そう思って相槌を打つと、彼はケロイドとなって吊り上がった方ではない口端を少しだけ上げた。浮かぶ微かな微笑は「そういうところだ」とでも言っているようだった。

 自分の瞳の話をされて、ならば、とばかりにノートンの瞳のことを考える。
 ノートンの瞳は、濃い色をしている。雲も星もない夜空と、地中の土の色を切り取って混ぜ合わせたような色。彼の瞳自体は澄んでいるのに決して煌めきはしない。深い暗闇のようだ。
 けれど、時折その瞳の奥でゆらゆらと炎が燃えることをは知っていた。太陽のような明るい光ではなく、暗い中にちらちらと仄赤い火が揺らめくような──それこそまるで、熾火のような。
 ノートンの地獄は、惨劇のすべてをその目で見た彼の瞳の中に写し取られて、時折姿を見せるのかもしれない。そんなことを、彼の話を聞きながら思った。

 相も変わらずの顔に手を当てたまま瞳を覗き込むノートンは、の額に自分のそれを合わせた。こつりと音がして、瞬きの音さえ聞こえそうな距離に整った顔がある。瞳の奥まで見透かされそうな近さで熾火を揺らめかせて、ノートンは静かに唇を合わせた。厚い舌がそっと境界を侵食するのに目を閉じる。
 しばらく互いの熱を交換した後、小さな音を立ててノートンは唇を離した。それに合わせてゆっくりと瞼を上げると、変わらずじっとこちらを見つめる瞳と目が合った。ずっと目を閉じずにこちらを見ていたのだろうか。

「君の隣はいつも涼しい」

 ほとんど唇が触れ合う距離でのノートンの囁きに、は彼より体温の低い自分の手で、滑らかな肌とは違う感触の左頬をそっと撫でた。

 仄暗い炎はノートンが必死で逃れようとしているものなのだろう。
 いつか彼が地中深い暗闇の苦しみから解放されることを、は心から祈っている。自分が荘園から抜け出すことより強く願っている。
 けれど、そうなれば蛇の舌のように揺らめく昏い炎がその瞳から消えてしまうのかもしれないと思うと、ひどく惜しい気がした。

「ここが一番、俺の地獄から遠いんだ」

 ああ、けれど、彼の地獄はの天国へと繋がっている。