歯並びが良いな、と思った。
 左目周辺の引き攣れて爛れた皮膚、小さな蝋燭の乗った大きな鍔の帽子、くたびれた服が包む鍛えられた肉体。真っ先に目を引きそうな特徴は他に幾らでもあったが、それでも最初にの目を奪って脳裏を占めたのは、小綺麗に揃って口の中に納まった眩いエナメルの集まりだった。
 その白い肌より更に白く、その硬い身体より更に硬く。硬質な輝きは際立って見えた。
 存外、第一印象というものは本質を突いていることが多い。畢竟人間の本質というものは外見の端々に現れていて、「名は体を表す」ならば「体は心を表す」とばかりに何も知らぬ筈の他者へと思いの外正確な印象を与える。
 ただし、その漠然と浮かんだ感想が正しかったことを知るのは最初に思ってからずっとずっと後の事だ。乱暴に自分を組み敷く男の歯が暗闇にぼんやりと白く浮かぶのを見ながら、はそんなことを思った。

 こちらを見据える瞳は真冬の月よりも冷えている。冴え凍った眼差しには優しさなど少しもない。元より感情の読みにくい昏い色をした目は、の瞳どころかその奥にある脳髄まで透かすようだった。その冷たい視線が射貫くように睨みつける度、その節くれだった指が手首をまとめて掴み身体を揺さぶる度、荒く呼吸して開いた大きな口から白い歯が浮き上がる。

 傷だらけだ。身体ではなく、心が。真っ白に硬い凶器で何度も何度も噛みつかれ、血を流している。
 ノートン・キャンベルの心には歯牙が生えている。身体には噛みつかれてもいないのに、彼の口にあるものよりも鋭いそれが、自分の中のいっとう柔い部分を食いちぎっていくように思えた。

Teeth

 ゆっくりと意識が浮上する。何度か瞬きを繰り返して、ぼやけた視界の焦点を合わせていく。そうして横向きに寝ていたの目に入ったのは傷だらけの大きな背中だった。男は既に掛け布団の中から抜け出し、ベッドの縁へと腰掛けている。曲がった背には背骨が浮き出ていて、呼吸のたび静かに動く。深い息をするのと同時に、頭の向こうからかすかに紫煙が立ち昇るのが見えた。
 煙草を吸っている。そう気づいて、は嘆息した。普段寡黙な男は、時折ひどく不機嫌になり冷たい雰囲気を纏う。そうして、その中でも特に機嫌が悪い時には滅多に吸わない煙草を吸うのだ。どうやら昨晩から今朝にかけてが、そのごくごく稀な日のようだった。

「ノートン」

 そっと呼んだ名前に返事はなかった。

・・・

 完璧に自分を無視してカーテンを引いたままの薄暗い部屋のなか一服するノートンの隣から退散し、は一晩ぶりに戻ってきた自室でシャワーを浴びていた。
 頭から42℃の湯を被っても眠気は一向にを離そうとしない。どこか霞がかった思考のまま、掌で石鹸を泡立てた。
 ノートンのことがまるで分からない。ぼんやりとしたまま思うのはそればかりだ。
 大抵は落ち着いていてひどく優しいが、時に人が変わったように冷たく、おそろしくなる。何がきっかけなのかすら掴めず、翻弄されるばかりのは困惑するほかない。
 ヒステリーという言葉は古代ギリシア語で子宮を意味するhysteraを語源とする。古代ギリシア人はヒステリーが子宮が動くことによるものだと考えていて、男には起きないものだとされていたのだ。
 そんなことが嘘以外の何物でもないということを、ノートンを古代ギリシア人の目の前に突き出して見せてやりたい。そう思いながら、は身体に泡を乗せた。彼にあるのは子宮ではなく、其処を目指すどこまでも身勝手で暴力的な器官だ。
 無意識のうち胸に手をやって、そっと心臓のある位置を撫でる。存在しない傷が疼く気がした。

 髪を乾かすのも億劫で、おざなりに拭き大方の水気を取っただけで大広間へと向かう。廊下の窓から差し込む光は痛いほどに眩しい。寝不足の頭を乱暴に揺らしてくるようだった。
 まだ7時前だからか、朝食の席にはほとんど誰もいない。今日は週末で、マッチが平日よりも少ないということも関係しているかもしれない。霞む目で誰かがテーブルに座っているのを認め、は入り口付近にある陶器のカップを持ちそちらへと向かう。

「ゆうべはお楽しみでしたね」

 誰かもよく分からないまま先客の隣に座ると、歌うような声が言った。
 夜通し体を酷使していたせいで頭が上手く回らず、朝の陽射しに相応しい軽やかな声はの耳朶を半分ほどしか通過しない。ゆっくりと隣を見ると整った顔立ちの青年が頬杖をついて彼女を見ていた。金色の巻き毛は高い窓から燦燦と差し込む朝日を透かして輝いている。マイクがニヤッと笑うのに合わせて頬のそばかすが歪むのをはぼんやりと眺めた。

「ごめん、見るつもりはなかったんだけどさ。夜に水でも飲もうと食堂に向かってたら、ノートンさんがさんを部屋に連れ込もうとしてるのが目に入ってしまったのだ」

 親指と人差し指で丸を作り、その手を右目に当てるマイクはひどく楽しげだった。

「ああ……」

 納得して相槌を打つ。目頭を押さえてぼやけた視界を少しでもクリアにしようとする間もマイクはニヤニヤと笑いながらを見ていた。それでも下卑た印象を微塵も与えないのは彼の軽快な声と人柄のお陰だろうか。

「ラブラブだよねぇ、君たち」
「ラブラブねえ……」

 テーブルの上にあったサーバーを手に取り、マグカップにコーヒーを注いではマイクの言葉を繰り返した。果たして、ラブラブな恋人達というものは床を共にした次の日の朝に一言も交わさずにいるものなのだろうか。火傷だらけの広い背中が堅牢な壁のように自分を拒んでいた様を思い返し、は苦い笑みを作った。時にノートンの背中は彼の口よりよほど雄弁に思いを語る。
 の乾いた笑いをどう解釈したのか、マイクは首を傾げた。

「ノートンさんはまだ寝てるの?」
「いや、起きてる。もう少ししたら来るんじゃないかな」

 ノートンのシャワーはひどく短い。烏の行水のようなそれはあっという間に終わるものだが、今朝の様子から見て行動を起こすこと自体に時間がかかりそうだった。まだ一服の途中ということもあり得るだろう。それでも、もう少しすれば彼の機嫌も直るだろうと考えながらはコーヒーに口を付けた。

「ノートンさんてさ、どんな人なの。あの人、さん以外と全然関わろうとしないじゃん」
「どんな人ねえ……ノートンは何を考えているのかどうにも分かりにくいから、にもなんとも言えないな」
「恋人でも?」
「恋人でも。分かったと思っていたら全然違う面を見せて……毛糸も持たずに出口の無い迷宮を歩いてるみたいな気分になる」
「わ、なんかロマンチック〜」

 両手で頬杖をつき目を輝かせるマイクに、はやれやれと首を振った。

「ロマンチックだと思うのはマイクが当事者じゃないからだよ」
「そうなの?」

 無言で頷いてまたカップに口をつける。誰が淹れたかは知らないが、今日のコーヒーは美味しい。
 そのまま勢いよくすべてを飲み干して、は椅子を引いた。

「あれ、もう行くの? ちゃんと食べればいいのに」

 テーブルに並んだいくつもの皿を手で示すマイクには首を振った。

「お腹空いてない……は今日マッチないし、もう一眠りするよ」

 等分にカットされたフルーツも、きつね色に焼かれたトーストも、今は魅力的に見えなかった。甘酸っぱいマーマレードの香りがかえって不快だ。
 空になったマグカップを持って席を立つ。それを流しで手早く洗い水切りかごに置き、相変わらず席に座ったままこちらを見ているマイクへと声をかけた。

「マイクは今日、昼からマッチだっけ。頑張って」
「あーりがと! さんに応援してもらえるなら百人力だよ」

 は思わず眉を下げて笑った。こういった事が何の嫌味もなく言えるから彼はサーカスでも人気者だったのだろう。

「起きてたらマッチ前に声かけるよ」

 きっと、昼を過ぎても眠りの中にいる可能性の方がずっと高い。本人だけでなくマイクもそう思っていただろうが、それでも彼はにっこりと笑ってに手を振った。

「楽しみにしてるよ。良い夢を」

 が食堂を後にして十分ほど経った頃。勢いよく扉の開く音がして、マイクは振り返った。入口に立っていたのは先程までとの会話で名前が挙がっていた人物で、彼はその男の恋人の予想が当たっていたことに心の中で感服する。
 食堂を見回すノートンの視線は、マイクがテーブルや椅子のような調度品の一つであるかのようになんの感情もなく素通りした。部屋の端から端まで何度か目を往復させて、その後ようやく人間と認めたように目をやる。

は?」

 朝の挨拶も無し、その上この場にいない人間について尋ねる。大層な態度にも気を悪くすることなくマイクは手を振って答えた。

「さっき出てったよ〜。朝ご飯食べないで二度寝するって」

 それを聞き、食堂の入口に立った男はすぐさま踵を返す。来たばかりの道を引き返そうとする背中にマイクは慌てて声をかけた。

「ねえ、すごく眠そうだったから部屋行くなら静かに入ってあげてね!」

 少しだけ振り返って、ノートンはかすかに首を振る。それを見て、マイクはほっと溜息をついた。扉が閉まりまた一人に戻った広間で、やっぱり彼らはラブラブじゃないかと曲芸師が思っていることを当人たちは知らない。

・・・

 心地よい安寧からゆっくりと引き上げられる。何か温かいものが優しく頭を撫でていることに気づいて、はとろとろとした眠気から抗うように少しだけ目を開いた。

「起きた?」

 穏やかに低い声が耳をくすぐる。霞む頭を動かして上を見ると、とろりと優しい眼差しがを見ていた。何度か瞬きを繰り返すと、数時間前まで一緒に居た男の顔がはっきりと形作られた。

「昨日はごめん。……今日の朝も」

 労るような手つきでの髪を撫で続け、ノートンはぽつりと呟く。

「俺、すごく自分勝手だったよ。ごめん」

 後悔の滲む声で謝罪を述べて、真摯な目で見つめてくる男は少し緊張している。許しがもらえるか分からないのだろう。
 はため息をついた後、小さく頷いた。途端に男の纏う雰囲気がほっと緩む。安堵したように息をついて、ノートンはに口づけた。かわいらしいリップ音が響き、すぐに唇が離れる。そうして、またもう一度顔が近づく。

「ごめん、今そういう気分じゃない……」

 降ってくる唇を避け、かすれた声でそう言うとノートンはひどい罵詈雑言を投げつけられたように目を見開いた。打ちひしがれた顔でへと寄せていた上半身を起こす。

「違うよ……俺はただ、に謝りたくて……」

 いたく傷ついた様子で言うのにじわりと罪悪感が浮かんで、迷った挙句は謝罪を口にした。

「ごめん」
「……いや、そもそも俺が悪かったんだし。ごめん」

 また謝って、ノートンはの頬をそっと撫でる。目を閉じて猫のようにその手に擦り寄った。少しの間乾いた手触りを堪能した後ゆっくりと体を起こそうとすると、男は助けるように優しくの腕を引いて背中を支えた。

「腹は空いてる?」
「うーん……そうだね、少し空いてきた。まだちょっと眠いけど」
「じゃあ、もう少しゆっくりしたら食堂に行こう」

 優しい声でノートンが言うのに目を瞬かせる。

「もしかして、まだ朝ご飯食べてないの?」

 部屋の壁にかかる時計に目をやると、短針はほぼ正午を指していた。とっくに済ませたと思っていたのに。驚愕と共にが尋ねると男は頷き、少しだけはにかんで笑った。

と一緒に食べたかったから」
「……ありがと」

 また額に唇を落とされて、はうっとりと目を閉じた。
 胸の内のひどい傷はいつの間にか跡形もなくなっている。代わりに、戯れのように優しい甘噛みが何度も心を食むようで、白く硬い牙はおそろしいものからひどく愛しい存在へと変わっていく。

 今日はきっと、甘く優しい夜が来る。この人だけが居ればいいと、心からそう思うような夜が。コーヒーに数えきれないほどの白い塊を落としたような、胸をときめかせる夜が。それは確信に似た予感だった。
 ──でもきっと、また昨日みたいな夜は来る。
 そう心の内で囁く声が聞こえ、は一瞬息を詰めた。それもまた、予知めいてはっきりとしていた。冷たく痛む、いっとう深い感情の奥底から血の泡が零れるような夜はきっと来る。逃れようもなく、きっと。燻る不安を振り払うようにぎゅっと目を閉じて、はノートンへと体を寄せた。広い背中に腕を回すと、大きな手があやすようにの背をさすった。

 ──ノートンの胸の内が見えれば、少しは彼の考えていることが分かるだろうか。その厚い胸を開き、白く硬い檻を砕き、中にある真っ赤に脈打つ塊をこの手に乗せて口づければ、あるいは。
 ふいに浮かんだ考えにひどく困惑する。凶暴な思い付きは、どこか魅力的な誘惑だった。

 ノートンの心に生えた牙がの心をバラバラにしてしまうより前に、それか獰猛で狂おしいこの衝動が愛しさを覆ってしまうより前に、彼のことが理解できればいいのだけれど。
 どこか他人事のようにそう思いながら、はノートンの胸に耳を寄せた。