本気の恋を、したことがあるか。一目見た瞬間に脳髄の奥で光が弾け、心臓が痛むほどに縮み激しく脈打ち、自分にだけ聴こえるファンファーレが高らかに鳴り響く恋を。
 子供の頃にする淡い初恋なんて、嘘っぱちだ。あんなものに“恋”なんて言葉を使ってはいけない。あれはただの錯覚だ。勘違いだ。お笑い草だ。
 彼女を見た瞬間、俺は本当に初めて、真実の恋をしたのだ。

楽園は此処に

 何事も初めが肝心。使い古された言い回しだが、まったくその通りだ。そも、陳腐な程に使い古されたと感じるのもそこに一定の真理があるからだろう。
 つまり、俺とは始まり方が悪かっただけなのだ。

 俺の部屋の俺のベッドで俺の羽毛布団をかけ眠る彼女を静かに見つめ、そう改めて思う。
 を見た瞬間、彼女が自分の運命であることを理解した。美醜だとか好みだとか、そういうくだらないものを一切飛び越えた、火花のように鮮烈な感覚。事故の後から──もしかすると産まれた時からずっとくすんでいた世界が鮮やかに色づき、目に映るすべてが輝いて見えた。輝きの源はだ。
 出会ったあの瞬間から、は俺の世界に存在する何よりも誰よりもうつくしく、眩しい。

 しかし悲しいかな、はそれに気づくのが俺よりも少し遅かった。
 人は自身の運命と出会った時、それが激烈であるあまり圧倒されてしまうことがある。俺は運命を受け入れたが、は立ち竦んでしまったのだ。だから、俺が初めてに会ったその時に華奢な両手を握り締めてきらきらとした目を覗き込み、心よりの愛を告げても、まったく理解をしてくれなかった。
 俺とは、少しばかり宿命に対する理解の速度が違ったのだ。
 いや、のせいにばかりするのはいけない。「がすぐに俺が自分の運命であるということを理解できなかった」ということに、気付けなかった。そんな俺にももちろん責任はある。俺もも、それぞれ非となる部分があった。互いの過ちを認め許し合うのが、真に愛し合う伴侶というものだろう。

 が運命を自覚できていないと俺が気付いた時には、彼女は既にすっかり俺を怖れ、か弱く哀れで愚かなうさぎのように怯えていた。初対面での印象を挽回しようとその後殊更優しく接しても、一度与えた感情は簡単に拭い去ることができなかった。
 少し話すようになっても見えない壁が俺との間を隔てているようで、ほんの少しずつしか溝を埋めることができないのがひどくもどかしかった。こんな状態は、おかしい。ひどく不自然だ。俺とは、結ばれることが決まっているのに。そう叫びたかった。

 ああ、愛する人に恐れられるということが、哀れな男の心をどれほど傷つけたことか。しかし打ちひしがれたままでいようなどとは毛頭思わなかったし、辛抱強くじりじりと距離を縮める気にもなれなかった。だって、俺とは結ばれることが元から決まっているのだから。本当ならば既に愛し合えている筈なのに、何故こんなにも無駄な時間を過ごさねばならないのか。少しの間違いのせいで運命を諦めるなんて、そんなのおかしいだろう?

 初めが肝心なのに、失敗してしまった。そんな時はどうすればいいか? 簡単なことだ。
 また初めからやり直すのだ。

・・・

 もうをこのベッドに横たえて数時間ほど経っただろうか。そろそろ起きてもいい頃かもしれない。
 そう思ったところで丁度小さく呻き声が聞こえ、思わず喉が鳴った。なんてタイミングだ。待ちわびていたが、同時に来ることが恐ろしかった瞬間でもある。

「う……」

 伏せられた睫毛の先が震え、小さな瞬きを何度も繰り返す。少しの間を置いてゆっくりと瞼が上がる様に思わず感嘆のため息をついた。眠り姫は、目を覚ます瞬間が最もうつくしい。
 現れた瞳は部屋の明かりを捉え、すぐ眩しげに細められる。その愛らしい様を見ながら乾いて引き攣れた唇を舐め、何度も頭の中で練習した台詞を口にした。

「大丈夫? 君、荘園の裏庭で倒れてたんだよ」

 食い入るように一挙手一投足を見て反応を確かめようとしていることが気付かれないよう、なんとか自分を抑え、心配そうな表情を作っての顔を覗き込む。起きたばかりでぼんやりとした面持ちの彼女はゆっくりと頭を動かし、俺を見つめた。視界に映る像をしっかりと結ぼうとまた何度か瞬きを繰り返す。
 まあ、上手くいっていなくとももう一度同じことを試せばいいだけだ。ひどく緊張しながらも、同時に頭の隅でどこか冷静にそう思う。脳とは大層繊細な代物らしい。二回も後ろから殴れば流石に大体の記憶は飛ぶだろう。

 息を殺して見守る中、少しだけ血の気の失せた唇が言葉を作ろうとゆっくり形を変える。手が震えそうになるのを必死に抑え、喉の奥から音を紡ぎ出そうとする様をじいと見つめた。

「あな、た、は……?」

 嗚呼、嗚呼。
 思わず目を瞑って天を仰いだ。

 その問いかけが持つ響きの、なんと甘美なことよ。なんと、なんと素晴らしきことよ。
 いるとも分からぬ神よ、今この瞬間は、あなたに感謝しよう。あなたは、俺とを祝福してくださっている。
 万感の思いを込め心の中で感謝の言葉を主へと捧げ賜うた後、ゆっくりと目を開き、また彼女を見た。
 澄んだ瞳は戸惑ったように俺を伺っている。子羊のようなその清らかな輝きは、目を合わせている俺をその中に反射して映し出している。その水晶に映る自分の、なんと幸せそうなことか。なんと満ち足りたことか。
 心よりの微笑みが顔を綻ばせるのを感じながら、俺はへと笑いかけた。

「俺は、ノートン・キャンベル」

 俺の好きな言い回しをもうひとつ教えてあげようか。

「君の恋人の、ノートン・キャンベルだ」

 終わりよければすべてよし、ってね。

終焉も此処に

 荘園の庭にはライラックがある。あの若い庭師は、およそ花と呼ばれるものなら何でも育てているのだ。
 夜になって皆寝静まったら、五枚の花弁を持ったライラックを探そう。誰にも、君にすらも見られず、月明かりの下それを飲み込もう。そうすれば、俺と君は楽園にて永遠に幸せであれるだろう。