初めての出会いは運命と呼ぶ他ないだろう。は招待状を受け取り自分の意志でこのエウリュディケ荘園に来たのではなく、偶然迷い込んでしまったのだから。心許なげな顔で荘園の庭にぽつんと立つ彼女を最初に見つけたのがジャックだった。サバイバーではなく、もちろんハンターでもない彼女がどうして迷い込んでしまったのかは分からない。
 招かれざる者を追い出すべきか、どうしたものかと考えあぐねるジャックを見た彼女は、彼の異様な風貌に悲鳴を上げることも、その目に恐怖を浮かべることもしなかった。代わりにどこか困ったようにジャックへと笑いかけ、勝手に入ってしまった非礼を詫びて彼の名前を聞いたのだった。その花が綻ぶような笑顔を見た瞬間から、ジャックの心はすべて彼女のものになってしまった。
 腹立たしいことに、その運命の邂逅は早々に邪魔されてしまったのだが。偶然その場に現れたサバイバー達が、ジャックがを害そうとしていると勘違いし、彼女を自分たちの館へと急いで連れて行ってしまったのだ。だが、それでも彼はを諦めなかった。足繁く彼女のもとへと通い、遂に心を通じ合わせるに至ったのだ。その時を思い出す度、ジャックの心は甘く幸せな霧に満たされる。

 と恋人になってから、ジャックは彼女と二人きりで食事をとるようになった。最近マッチで目覚ましい成果を上げているから、荘園の主からそのようなわがままを許してもらえるようになったのだ。愛の力だ、と彼は思う。元から力を入れていないわけではなかったが、それにしても以前とは比べ物にならないほどマッチでの戦績が良い。今日も全てのサバイバーを椅子に括り付けることができた。
 全てのマッチを終えて、外はもう日が暮れている。本日の予定はと二人きりのロマンチックなディナーを残すのみだ。ジャックはすこぶる上機嫌で館の廊下を歩いていた。


「ジャックさん? ジャックさんですか?」

 自室の扉の前に立ったところで鈴を転がすような声が自分の名前を呼ぶのに、ジャックは仮面の下の顔を綻ばせた。愛しい女性に名前を呼ばれるのは何度味わっても良いものだ。外から鍵を外して扉を開く。部屋の中のはベッドの上に座っていた。
 彼女を見るだけで、ジャックは幸せなため息をついてしまう。こんなかわいらしく愛らしい人が自分のものであるという事実に、未だに飽きもせず毎回甘い胸の痛みを感じてしまうのだ。それは何度味わっても鮮やかで、いつまでたっても色褪せることはなさそうだった。
 ジャックと目が合うと、は一拍置いてから笑みを浮かべた。目の覚めるような青いドレスはジャックがプレゼントしたものだ。白い肌とのコントラストが鮮やかで、それを着ているときの彼女はより一層美しく見えると彼は思っていた。

「おかえりなさい、ジャックさん」
「待たせましたね、

 優しく笑いかけ、外した仮面を机の上に置く。ジャックはが座るベッドへと近づき、膝を折って彼女と目の高さを合わせた。

「貴方が喜ぶと思って、プレゼントです」

 背中の後ろに隠していた左手を前に出し、その大きな手の中の薔薇の花束を見せるとは目を丸くした。花束の薔薇がすべて、恐ろしく鮮やかな青をしていたからだ。

「この荘園の庭は少し変わっているようでね。外では見れないような、不思議な花が咲くんですよ」

 ジャックはその鋭い爪でを傷つけないように、慎重に小ぶりの花束を手渡す。もちろん、棘はすべて抜いてあった。ジャックはそういった小さなところに気が付く男なのだ。
 は両手で花束を受け取り、しげしげとそれを見た。

「綺麗……こんなに素敵な花、初めて見ました」

 花屋では時々真っ青な薔薇が売っているが、あれは染料を使って特別に染めている。だが、この薔薇はもちろん何も手を加えてなどいない。まるで深い湖のような色をしたそれは自然界には存在しないはずだが、そういったものが当たり前のようにあるのがこのエウリュディケ荘園だった。

「ジャックさんは、本当に……優しくて、素敵な人ですね。嬉しいです。ありがとうございます」

 そう言うとはベッドの上に花束を置きジャックに笑いかける。本当はもっとゆっくり薔薇を見てその香りを嗅いでくれれば、と思ったがそんなことはの笑顔を見たら頭から吹っ飛んでしまった。彼女の微笑は本当に美しい。顔の美醜だけではなく、慈愛と親愛の心が溢れ出てくるようで、ジャックはその純粋で穏やかな眼差しを何よりも愛していた。
 けれど、少しもしない内にはその笑みを花のかんばせから消し、俯いた。どうしたのかとジャックが見つめる中、は意を決したように顔を上げて口を開いた。

「ジャックさん、……また足が、悪くなってるみたいで」

 うまく動かせず、引きずるようにしてこちらに見せた踵には水彩絵の具のように綺麗なピンクと赤が滲んでいる。まるでリボンのように両足首を彩る太い傷にジャックはうっとりとした。確かに朝よりも少し膿んでいるようだ。もしかすると、はジャックが出かけている間に傷口を突いてえぐるような真似でもしたのかもしれない。彼の気を引くためにそんなことでもしたのなら、とてもかわいらしいことだ。

「……お、お医者さんに、診せた方がいいと思うんです」

 医者。そういえば、最近荘園にやって来たルキノという男は元は学者であったと言っていただろうか。医者と学者では大きく違うが、生物学を研究していたようだし人間の体にもある程度詳しいかもしれない。色々と研究をしているようだし、もしかしたら薬をもらうのもいいかもしれない。きっと、必要ないだろうけれど。表面の傷はそのうち治る。中の腱はいつまでも治す気はない。医者に診せたって診せなくたって、それは別に変わらないのだから。
 ジャックはぼんやりと考えながら白い脚を手の甲で優しく撫で、そのままの背中と膝の下に手を入れて華奢な身体を抱えあげた。一緒にベッドの上の花束も拾って、その大きな腕の中に収める。これは晩餐の間テーブルに飾ろう。

「ディナーにしましょう」

 ぐっと顔の距離が近づく。腕の中のに微笑みかけると、彼女は体を縮こまらせて頷いた。元から羽のように軽かった彼女は、最近あまり食事を摂っていないからか今では霞になってしまったのではないかと思ってしまうほどに細く頼りない。そんなに気にせずとも、ジャックは力持ちなのだからもっとしっかりとした重みを感じさせてくれて構わないのに。が美味しそうに食事をしてくれる方が、彼としては余程嬉しい。今日は少食の彼女でも食べやすい、重くないメニューが多かったはずだからきっと喜んでくれるだろう。

「愛していますよ、

 お姫様にするように恭しくくちづけて囁くと、の頬に一筋の涙が伝った。

「……も、ジャックさんを愛しています」

 震える声で言って、彼女は目を閉じた。

最果ての地、幸福の国

 ひらひらと荘園に迷い込んで自分の心を奪い取ったは、美しい蝶のようだとジャックは思っていた。けれど、その表現は間違っていたことに想いが通じ合ってから気づいた。
 蝶は、羽を捥げば醜くもがく芋虫へとなり果てる。だが、はその足を奪い取っても変わらず可憐なままだ。──彼女は、蝶ではなく花だったのだ。花は手折られたって、その美しさを変わらず保つ。まるで、この鮮やかに輝く青薔薇のように。

 ──そうだ、この青い薔薇たちは、今夜の晩餐の後にプリザーブドフラワーにしてしまおう。唐突なその思い付きは、ぽんと頭に浮かんだにしては素晴らしく冴えたものに思えた。
 そして、そのうちの1本を自分のステッキに飾るのだ。そうしたら、ずっとその美しさを楽しむことができる。そうしたら、マッチの最中でもと共にいるような気分になれる。

 ジャックがいなければ、は地面を這いずる以外に移動手段を持たない。けれど大切で愛しい彼女にそんな惨めなことなどさせる気は無いのだから、それでいいのだ。自分がこの腕でをお姫様のように抱きかかえれば、二人はどこへだって行けるのだから。
 鼻歌を歌いながら、ジャックは館の廊下を歩く。も薔薇も、彼の腕の中にすっぽりと収められるのが良く似合っている。