Even Death Do Us Part

 磨き上げられた革靴のトウに跡がつく。曇り一つない革が歪んで、囁きのように軋む音がした。
 中身を取り出そうとポケットに突っ込んだ手は汗で濡れている。片方の膝を完全に地面へとつけると、相対する女性は息を呑んだ。

「私と、結婚してくれますか?」

 情けないことに、声が震えてしまった。声だけではない。汗ばんで湿った手も、その長い指の間にはさまるリングケースも。けれど、それを見るの瞳も落っこちそうにゆらゆら揺れて、小さな口を覆う白い指は小鹿のように震えていた。だから、なんだか勇気づけられたのだ。

「……夢みたい」

 ようやく口を開いたの細い声まで震えていて、ジャックは思わず笑ってしまった。

「それはイエスってことかい?」

 目に涙を浮かべて、は何度も頷く。頬には透明な歓喜が伝った。
 それでようやくジャックは彼女の震える細い薬指にきらめく指輪を通して立ち上がり、泣き出してしまった愛しい人を腕に収めたのだった。
 目に映る景色は鮮やかで美しい。朝方に降っていた雨で濡れた空気は空気中の塵を拭い去り、街路樹の葉についた露が光を反射して煌めいている。すべて、すべてがうまくいくはずだ。これからきっと。
 その筈なのに、肋骨の内を嫌な予感が這いまわる。百足の蠕動に似たその悪寒から目を背け、ジャックは恋人から婚約者になった女性をいっそう強く抱き締めた。


「やっぱり年内がいいかしら……ジャックはどう思う?」

 楽しそうに話すが同意を求めるのに、名前を呼ばれた男は穏やかな笑みを浮かべて相槌を打った。
 交際していたにプロポーズしてから一週間。二人は、結婚に向けての話し合いをしていた。
 式を行う教会、日取り、招く親族に友人。式は当分先になるだろうが、頬を上気させてあれこれと話すは心底幸せそうに見えた。実際、本当に幸せなのだろう。自分だって同じだ、そう思う。
それなのに、ジャックの胸の中では依然ざわざわと醜い虫のような気配が蠢いていた。
 パズルのピースが間違った箇所に収まっているのに、完成したと見なされてしまったような、なんとも言えない違和感。それはほとんど、不快感に近かった。
 すべてが完璧に進んでいる筈なのに何故こんなにも落ち着かないのだろう。何故こんなにも悩んでいるのだろう。彼女と一生を共にしたいという気持ちは、心底のものなのに。まるでシャツのボタンを掛け違えてしまったように居心地が悪い。
 頭の靄を振り切るように首を振って、ジャックは愛しい人の髪を撫でた。絹糸は長い指の間を心地よく通り抜ける。自分の心の内もこれくらいすべらかであって然るべきなのに。
 少し照れたように、けれど嬉しそうに、そうっとジャックへともたれかかる温度は温かく柔い。心が休まる愛しい温もりに、自然と気持ちが楽になる。息苦しい首元のタイをもう片方の手で少しだけ緩めて、ジャックはに聞こえないよう小さくため息をついた。

 忌まわしい声は、幼い頃からジャックと共にあるものだった。ざらざらと舌触りの悪い、粗悪な香辛料のように不愉快な声。そのくせ何故か聞き入ってしまう魔力を持っているから質が悪い。話す内容はもっと酷かったが。
 その人形の腹を裂いてみろ、中を覗け、掻き出してしまえ。耳を塞いで締め出したいのに、頭蓋骨の奥から響いてくるのでそれも叶わない。結局のところ唆しに乗ってしまって、一瞬の高揚の後には多大な自己嫌悪と罪悪感が残った。
 声が鎮まるから絵を描くことが好きになったのか、元々ジャックが絵を描くことを好んでいたから“彼”も絵を描いていると静かになるのか。どちらが先だったのか今ではよく覚えていないが、と話が合ったのも芸術のおかげだった。
 ジャックは油絵を好んで描いていたが、は、淑女らしく水彩画が得意だ。思い思いに絵を描いたり、互いの絵を見て話したり、共に美術館を訪れたり。繊細なタッチと色遣いで描かれる淡い絵はらしく美しい。も、ジャックの描く折り重なる色彩と重厚な筆遣いを好んでくれている。二人でそうして共有する時間は何よりも幸せなものだった。

 ジャックが己の内に怪物を飼っていることを、は知らない。当たり前だ。彼女は穏やかで紳士的な芸術家を愛しているのであって、血と恐怖に飢えた化け物を恋人にしているつもりはないのだから。けれど、このところ、必死に隠して抑圧している狂気が虎視眈々と薄皮一枚を破ろうとしているのをジャックは感じ取っていた。それならばいっそ──一度解き放ってしまうのはどうだ? そんな思いが段々と頭の内を占めてくる。
 との幸福をいつまでも守り抜くために、やはり“彼”を一度好きにさせて──。いつか爆発してを傷つけてしまうよりは、夜の霧に紛れて娼婦を一人殺し、この歪んだ欲望を発散してしまえばいい。そうだ、薄汚い女一人消えたって誰も困りやしない。世界は変わらず廻っていく──
 そう囁く声が“彼”のものなのか自分の思考なのかは、分からなかった。なんにせよ、抗いがたいほどに魅力的な響きを纏っていたことは確かだ。

 遂に、遂にやってしまった。
 カーテンの隙間から部屋に差し込む光に顔を照らされ、ベッドから体を起こしてそう思う。
 起きたばかりとは思えないほどにドクドクと血が巡り、頭から足先まで熱くする。取り返しのつかないことをしたと分かっていても、心身を満たすのはこれまで感じたことのない凄まじい高揚感だった。頭の内にある霧がぱっと散って澄み切ったような精神の冴え。
 昨夜ジャックが寝ている間に“彼”が行ったことは、それこそ夢のようにどこかふわふわとして彼の記憶を漂っていた。現実か妄想か一瞬判断しかねるような曖昧な感覚だからこそ罪悪感はどこか遠く、それなのにすっきりと思考が澄み渡っているのが素晴らしく心地よい。最高に幸せだ。これで自分の内の霧は消えた。“彼”も満足して大人しくなるだろう。
 鼻歌を歌いながら、ジャックは浴室へと向かった。
 今日はと会って、昼食を共にする予定なのだ。

「……また……それも二人だなんて…………」

 頭を抱えてジャックは呻いた。
 新聞の一面には大きく婦女殺人事件の記事が載っている。それも、一晩の間に二人。
 嫌な予感はしたのだ。起きた時には前回よりも強い鉄錆の匂いがして、部屋には見るのも嫌なものがあった。ご丁寧に走り書きまで添えて。満足するかと思った“彼”はむしろ味を占めている。そう認めざるを得ない。
 気が狂いそうだ。いや、とっくの昔に狂っているのだろう。
 最初の一回以降、悪行の記憶が無いのだ。毎日寝るのが怖くてたまらない。同じくらいに起きるのが恐ろしい。“彼”は完全にジャックの手を離れて暴走していた。
 ──もし、これがと結婚した後も変わらなかったら。考えるだけで脳味噌が揺さぶられ吐き気がした。婚約中と言えど、婚前の二人はまだ夜を共に過ごしたことなどない。けれど結婚すれば、夜毎にベッドを抜け出し、生臭い匂いをつけて戻る夫にが気付かない訳はないだろう。いや、それどころか街の女ではなくを傷つけてしまうことだってありうる。そんなこと、絶対に起きてはいけない。
 どうすればいい。何が正解なのだ。自分はただ、と結婚して幸せに暮らしたいだけなのに。じわじわと汚泥に沈められていくようだ。もう喉元は近い。
 よろよろと浴室へ向かい、壁にかかった鏡を見ると、死人みたいに顔色の悪い男がこちらを見つめていた。酷い顔だ。

「ねぇジャック、今度式を挙げる予定の教会を見に行かない?」

 ホワイトチャペル自警団に『地獄より』という手紙と肉塊が届いたことが新聞の一面に載った、次の日のことだった。
 会った時から物憂げな様子だったがようやく口にした提案──響きとしては懇願ともとれる言葉に、ジャックは何度か瞬きをした。

「いいけれど……」

 少し妙な提案だった。結婚式はまだ何ヶ月か先の予定だし、そこはの住む場所の近くにある、彼女のよく知った教会だ。今更下見をする必要など無い気もする。それに、なんでこんな簡単な話をするのにたっぷり時間を取ったのかも不思議だった。
 ジャックの困惑した様子を見て取ったのか、は一呼吸おいてからまた口を開く。

「実際どれくらい人が入るのかきちんと数えてみたいし、光の入り具合も見て何時ごろ式を挙げるかも決めたいの。どうかしら?」

 ジャックは少し口ごもる。
 どこか、彼女らしくない話だった。内容がではない。まるでジャックに聞かれることを想定していたように、すらすらと答えが返ってきたところがだ。しかし断る理由もない。迷った挙句、彼は彼女の意に沿うことを決めた。

「もちろん、構わないよ」
「ありがとう。そうしたら、教会で待ち合わせしましょう」

 来週か、再来週くらいに。
 どこか釈然としないまま頷いて、ジャックは自身の予定を確かめるため手帳を開く。週末なら空いているだろう。

 教会の重い扉を開いて中に入ったジャックは、目に映った光景に立ち竦んで固まった。己の目を疑う他なかった。

?」

 祭壇の前に立ってこちらへと背を向けるは、純白のドレスに身を包んでいた。
 何故、ただの下見に花嫁衣装を着ているのだろう。頭は疑問符でいっぱいだ。
 高い天井に反射して声が空間を埋める。二人の他に人はいない。厳粛たる場所は今、ジャックとのためだけに存在する。
 高い窓から昼の陽が差し込んで、十字架と祭壇を照らしている。ジャックには背を向けたまま、の声が聖域に響いた。

、知っているの。あなたが、夜に何をしているのか」

 血の気が引く音を聞くのは初めてだった。

 本当に、潮が引くようにざあと鳴るのだな、と冷静かつ的外れなことを頭の片隅で思う。きっとこんなことを考えてしまうのは真に落ち着いているからではなく、衝撃のあまり自分自身のこととして現実を捉えられなくなっているからだ。

「……何のことだい?」

 強張った自分の口が動くのを他人事のように感じていた。
 透けるヴェールが揺れて、細い足を隠す長い裾が衣擦れの音を立てる。ようやく振り返ったの顔は逆光でよく見えなかった。どんな表情をしているか知るのが恐ろしくて、けれど見えないものを悪く想像してしまうのはもっと恐ろしい。震えてうまく動かない足をなんとか前に押し出して、ジャックはバージンロードを一歩ずつ進む。まっすぐに彼の方を向いたの返事は淀みなかった。

「あなたが、あの可哀想な女性たちに何をしたか知っているって、そう言っているの」

 希望の切れ端は跡形もなく消えた。肺を満たす冷たい霧が身体の内を切り裂くようで息が苦しい。一度立ち止まり、コートの前を強く掴んで喘ぐように呼吸をする。それでもまた、なんとか歩き始めてジャックは問いかけた。

「何故、分かったの?」
「あなたを愛しているから」

 返ってきた声はひどく優しかった。歩みを進めてようやく見えた、その顔も。

「……隠していたんだろうけど、新聞に事件が載った日はひどく落ち込んでいたのが分かった」

 目の前に立ったジャックを見上げるはいつも以上に綺麗に化粧をしていて、髪は整えられて、得も言われぬほどにうつくしい。

「そんな日に抱きしめられると、いつものコロンの奥にほんの少しだけ鉄みたいな匂いがした」

 連続婦女殺人犯と二人きりで相対していると自覚しているとは思えないほどに、その表情は慈しみに満ちている。いっそ空恐ろしい程に、うつくしい。ミューズのようだ、とジャックは思う。

「殺された女性たちが気の毒でも、あなたを警察に突き出すことなんてできない……あなたを、愛しているから」

 先程と同じ言葉がずっと苦しげに絞り出される。いつかの日のように震える唇は、けれどあの時と違って血の気を失っていた。

「けれど、やっぱり、知らないふりをすることも見過ごすこともできない……」

 の青ざめた頬を透き通った哀しみが音もなく伝う。

「だから、をここで殺して」

 全身を巡る血が氷の欠片へと変わったようだった。
 一瞬前までよりも余程信じられない思いで、ジャックは花嫁を見つめた。細く長い指が冷えて、段々と感覚が消えていく。燦燦と降り注ぐ日差しは少しも体を温めてくれず、ただただ冷たい恐怖が男の中を満たす。

「何を、言って──」
「お願い」

 囁くような声のくせに、揺らいで消えてくれはしない。はさめざめと泣いていたが、まっすぐにこちらを見る瞳に迷いは少しもなかった。──彼女は本気なのだ。

 “彼”は、か弱い存在の怯えて強張る顔が好きだ。震える頼りない体が好きだ。見開いて涙をこぼす瞳が好きだ。慈悲を乞い泣き叫ぶ声が好きだ。生と死の狭間を彷徨わせてやる時が好きだ。蹂躙が、殺戮が、甚振ることが好きだ。
 けれど自分は、唯一無二である彼女の笑顔が愛しい。上品なドレスの似合う姿が愛しい。曇りのない瞳が愛しい。慎ましやかに笑う声が愛しい。二人でいれば尽きぬ会話と足りぬ時間が愛しい。大切にして、慈しんで、真綿にくるむ様にして愛したい。
 正反対の二つは、けれども表裏一体で、結局のところ切っても切り離せない。
 心の奥底では分かっていた。違うパズルからやってきてしまったピースは、ジャック自身だ。本当ならばこんな清らかで真っ当な、白百合のような女性と共になることなど許されない、霧の男。が淡い色彩の水彩画ならば、ジャックは暗褐色で塗りつぶされた厚い油絵だ。自身のキャンバスを越えて、の紙にまで淀みを移してしまったのだ。一度色が移れば二度と白には戻らない。そんなこと、誰だって知っている。
 告解のように考えを巡らせて、ジャックは愛しい人を見つめた。

 真白いドレスは最早祝いの衣装ではなく、離別のためにある最期の華やかな装いであった。染み一つない白には、きっと鮮やかな赤がうつくしく映える。そう思ってしまう自分が心底悍ましいのに──自分と“彼”との境目はあと少しでぐちゃぐちゃに混ざって溶けて、消えてしまおうとしている。
 教会に行こうと言ってきたあの日から、はずっとこうするつもりだったのだ。ひどく泣きたくなって、ジャックは強く目を瞑った。
 気づいてから、どれほど悩んだのだろう。どれほど苦しんだのだろう。どれほど泣いたのだろう。人生で一番幸せな日を象徴するはずのドレスに身を包みながら、どれほどの覚悟を決めて、この場所に来たのだろう。
 誓いは永遠になる。十字架のように契りを抱えたまま、は永久の眠りにつくのだから。
 俯いたジャックの両頬を小さな手が撫でる。何度も優しくさするその温かい手を、ジャックは震えの止まらない自分の手で包み込んだ。このまま触れ合った場所から繋がって溶け合って、いつまでも離れなければいいのに。

 残酷で愚かな願いはきっと、天真爛漫で朗らかなが見せる最初で最後のエゴだ。
 愛する人を告発するほどの冷徹な正しさは持てず、だからといって恭順するほど堕ちることもできず、そんな中途半端な自分を許すことすらできない。ジャックが愛する、人並みに優しくて、人並みに弱くて、人並みに真っ直ぐなの最後の願い。
 ならば、それを精一杯叶えてやるのが伴侶の責務だろう。
 ステンドグラスから差し込む虹が後光のようにを照らしている。ようやく目を開いたジャックの目に映る花嫁は天使と見紛うほどに清らかで、堕天使を凌ぐほどにうつくしかった。
 濡れた睫毛が下瞼に影を落とす。確かに生を示して小さく震えるそれをじっと見ながら、ジャックはヴェール越しにの髪を撫でた。

「綺麗だ。世界で一番」

 囁く声には微笑んで、目に映る光景を焼き付けるようにゆっくりと瞬きをした。色のない唇が静かに動く。

「愛しています……健やかなるときも、病めるときも、死が二人を分かつとも」

 の呟く声は赦しのように、ジャックの耳から伝って全身を巡る。

「私も、君を心の底から愛している」

 見つめ合った瞳は愛に満ちていた。

 抱えている体は温かい。ゆらゆらと揺れる足先は長い裾で隠れている。乾ききっていない涙が光る頬は青ざめているが、その表情は眠りについているように穏やかだ。ただ、睫毛はもう震えたりしない。華奢な肢体は完全に力が抜けて、しっかりとした存在を腕に伝えていた。
 この重みを、何に例えるべきなのだろう。愛か、罪か、はたまた別の何かか。一緒に考えてくれる人は、もういない。

 それは、ジャックが“ジャック”として行った最初で最後の殺人だった。狂気ではなく、慈しみを。愉悦ではなく、愛を持って為した業。
 そうして、は──少ししてから“ジャック”も、眠りについた。
 だから、二人の話はこれで終わり。これで、終わりなのだ。