※現パロ注意

 自然と目が覚める朝は嫌いじゃない。暗闇の奥からすっと引き出されるように意識が形を持つ。ベッドの中にいる自分を知覚して、ぼんやりとしながら寝返りを打った。上等なシーツがきゅるりと音を立てて身動きをしたを咎める。んん、と喉の奥で声になりきらない音を漏らすと暖かく滑らかで、けれどしっかりとした力強さを持つものがを抱きすくめた。

「おはよう」

 の体に回る腕と同じように滑らかで優しい声が朝の挨拶を告げて、額に口付けを落とす。まだかすむ目で何度か瞬きをして、こちらに微笑みかける男を見た。

「起きてたの?」
「少し前にね」

 穏やかで、温かい、守られた空間。
 少し前に夫となった人の腕の中で迎える朝はこの上なく幸せで、今のはきっと世界で一番幸福な女だった。

「これからしばらく、帰りが遅くなるよ。アトリエに泊まり込む日もあるかもしれない」

 ごめんね、と眉を下げて、の作った朝食を食べる夫──ジャックは言った。
 彼は画家であるが、それと同時に大学で美術を教えている。本業は画家の方だけれど、どちらかの仕事が忙しくなるのだろうか。そう聞くに彼は紅茶を飲みながら教えてくれた。

「少し前に受けた依頼の絵が大詰めでね。あと二週間くらいで完成させるつもりだ」
「そう……。最近夜は特に寒いから、風邪を引かないよう気を付けてね」
「ああ。ありがとう」

 少し寂しいけれど、お仕事は大切だし仕方ない。ちょっと落ち込みながらも、は大学にジャックを送り出した。今日もやることがいっぱいあるので、落ち込んでばかりではいられないのだ。

 しばらく帰りが遅くなるとジャックが告げてから一週間ほど経っていたが、宣言通り時々大学のアトリエに泊まったりもして、相当に忙しい様子だった。やはりもう一週間ほどかかるらしい。
 そんな風に夫が忙しくしている間妻であるは何をしているのかという話だが、はこのご時世にも関わらず、共働きをすることもなく主婦をしている。旦那様の稼ぎが十分であるからだけでなく、二人で住んでいる屋敷が大きくて掃除や換気などの家事をするだけでも相当に大変だからであった。
 ジャックが両親から相続したこの郊外の屋敷は歴史がある立派なものだ。とにかく部屋数が多く、客室もたくさんある。階数も下は地下一階から上は三階まであるので、ジャックからは掃除するのは一階と二階だけで良いと言われていた。確かに毎日は大変だし、普段は使わないので、もお言葉に甘えて地下一階と三階は時々、時間がある時にだけ掃除をしようと決めた。それでも、かなり家事が大変なのは事実だった。

 掃除を終えた後に洗濯を済ませ、冷蔵庫と貯蔵庫を確認して何を買い物するか決める。ちょうど愛飲している紅茶の茶葉が切れたので、いつも行くスーパーではなくて家の近くにある、知人の営む食料品店に買い物に行こうと決めた。
 その個人店にはあまり入荷されない珍しい茶葉や食料などが多く売っていて、紅茶を買うならここだと以前からジャックと二人で決めているのだ。更に言えば、その店主はジャックにを紹介してくれた人でもある。
 数ヶ月ぶりに店を訪ねて店主とあれやこれやと話し込んでいると、「そういえば」と彼は言った。

「昨日、偶然ジャックと会ったんだが、君のご主人は先週大口の依頼の絵を仕上げたらしいね?」
「え……?」
「売れっ子のようで、羨ましいばかりだよ」

 にやりと笑って言う彼に、曖昧にしか言葉を返すことが出来なかった。
 先週? だって、あと一週間くらいかかると言っていたのに。
 ──それならジャックは、夜遅くまで何をしているの?

 家に帰ってきてから、は悶々と考え込んでいた。浮気──では、ないだろう。なんと言ったって、結婚したての新婚夫婦だ。ジャックに愛されている実感も自信も十分すぎるほどにある。だってジャックを愛している。結婚前から浮気相手がいて今でも続いているという可能性も無いわけではないが、流石にそこまでされていたら気付くと思う。これでも勘は鋭い方だ。
 それなら、何故? 何故ジャックは、に嘘をついてまで夜遅く帰ってくるのだろう。一体何をしているのだろう。

「……分からない……」

 いくら考えても答えは出ない。ヒントが少なすぎる。諦めて、気分転換をしようとテレビの電源を入れた。
 液晶が色づいて、昼過ぎのニュースが映し出される。ちょうど、ここから少し離れた地域で起きた殺人事件についての報道が流れていた。落ち着かない気分の時に、嫌なニュースを見てしまったと顔をしかめた。
 少し前から、この事件は話題になっている。犯人が見つかっていないだけでなく、恐らく同一犯による殺人事件が数件起きているからだった。しかるに、連続殺人だ。この屋敷からは車を一時間ほど走らせる場所ばかりで起きている。遠くないが、近くもない。そんな微妙な距離。
 いわゆる夜の道に立って生計を立てる女性ばかりを狙った事件は凄惨で卑劣なのに、犯人が掴めていない。嫌だな、と思いながらチャンネルを変えた。

・・・

 結局、ジャックが何をしているのか何も結論が出せないまま数日が経った。相変わらず彼の帰りは遅い。今日なんて、が寝る直前に帰ってきた。ちょうどシャワーを浴びていたので出迎えることができなかったのだけれど、彼はむしろ申し訳なさそうに眉を下げて、連日遅く帰ることを詫びた。
 ジャックはそんな風に優しい人なのだし、素直に本人へと何をしているのか聞くのが一番なのだろうけれど、何か彼がとんでもない反応をしたら……だとか、の質問のせいで予想だにしなかった展開になったら……と思うと恐ろしくて中々切り出せない。
 そんな風に連日悩んでいたせいでストレスが溜まって眠りが浅くなっていたのか、その日は夜中に目が覚めてしまった。身動きしたことでジャックを起こしてしまわなかったろうか、と彼が居るはずの空間に手を伸ばして、は固まった。
いない。隣に、ジャックがいない。
 冷水を浴びせられたように眠気が吹き飛ぶ。勢いよく体を起こしてベッドサイドのランプを付け部屋を見回しても、ジャックの姿はなかった。
 いや、トイレに行っているだけかもしれない。変に思うことなんて何もない。妙に疑り深くなってしまっている自分をそう落ち着けて、はランプを消す。またベッドの中へと潜り込んで、ジャックの帰りを待った。
 数時間経って戻ってきた彼は、背を向けて寝たふりをするの頭を優しく撫でてベッドに入る。外の匂いはしなかったけれど、その手はいやに冷たい。それに、トイレに行っていたにしてはあまりに帰ってくるのが遅い。
 しばらくして彼の規則正しい寝息が聞こえても、の目は冴えるばかりだった。

「ねえ、まだ絵の完成にはかかりそうなの?」
「そうだね……あと数日かな」

 まんじりともせずに夜が明けた、次の日の朝。朝食の時間、カップに口を付けながら平然と嘘をつくジャックにますます疑念が深まる。表情が硬くなるのをなんとか抑えて、そう、とだけ相槌を打った。
 一体何を隠しているの? 昨日の夜はどこへ行っていたの? 聞きたいことは山ほどある。それなのにあと一歩が踏み出せない。はどうすべきなのだろう。

「また事件か。嫌になるね」

 上の空になって考えていれば急にジャックの声が低く剣呑になって、肩を跳ね上げた。眉を寄せた彼の視線を追ってテレビを見れば、また娼婦を狙った殺人事件が起きたとのニュースが流れていた。犯行は、恐らく数日前の深夜に行われたらしい。

「家から少し距離があるけれど、も気を付けるようにね。この事件に限らずとも、夜は外に出ないのが一番だ」
「……ええ」

・・・

 もう、いくら考えたって仕方がない。今日は気分転換に、屋敷の部屋全部を掃除しよう。ジャックが仕事に行った後そう決めて、は普段は来ない地下一階へと来ていた。地下なだけあって、ここは他の階より少し涼しい。普段掃除をしない分、どの部屋も念入りに掃除機をかけて、埃を払っていく。しばらくして、ようやく一番奥の部屋まで掃除が進んだ。
 あまり大きくないその部屋に並ぶ本棚の埃を払っている時、その本棚の内の一つに違和感を覚えて首を傾げる。
 その正体に気付いた瞬間、鳥肌が立った。
 それは、本棚ではなかった。いくつも本が並んだようにでこぼこと出っ張っているが、すべて絵だ。本棚の絵が描かれている、壁だ。あまりこの部屋に来ないから気付かなかったのだ。
 そっと触れて手でつらつらとなぞれば、ハードカバーの感触ではなく木の手触りのみが伝わる。上から三段目の棚、左から六番目の本。順番になぞっていくと、そこだけが本物の本だった。
 どくどくと心臓が胸の内で暴れる。迷い、悩み、逡巡した挙句、はその本を取って奥へと手を伸ばした。そうして指先に触れた感覚に、ひゅ、と喉を鳴らす。何か出っ張りが──恐らく、ボタンがある。
 の勘違いでなければ、この壁の奥に、部屋がある。

 唐突に、例のジャックを紹介してくれた、共通の友人が話していたことを思い出した。

 ──昔は、ジャックはもう少し控えめで陰気な奴だったな。それから、今より明るすぎる時もあったかもしれない。どっちなんだって? だから、どちらもさ。
 昔は、大人しくて口数が少ないと思っていたら急に怖いくらい明るい調子になったりして……。なんというか、二つの正反対な面を持ち合わせているような感じだったんだ。けれど、数年前からいい具合に二つを混ぜ合わせたような性格になったな。静かすぎず、だからといって急にはしゃいだりもしない。落ち着いた顔でジョークを言って、笑いながらも紳士的。簡単に言って、年を経て落ち着いたんだろうな。まあ、ありがちなことさ。

 なんで、今こんな話を思い出すのだろう。聞いた時にはそうなのね、としか思っていなかった話が今になってまざまざ脳裏に蘇る。
 その陰気な一面が、彼の内に秘めた凶暴性をひた隠しにするための鎧だったとしたら。その躁的な情動が、抑えきれなかった彼の狂気の現れだったのだとしたら。
 ──今の彼が落ち着いているのは、彼が己の狂気を受け入れて、それを上手く隠すことを覚えたからだとしたら。
 背筋が冷えた。

 急に、朝見たニュースを思い出す。あの連続殺人が起きているのはジャックが勤めている大学と同じ方面だ。大学より家から遠いけれど、もう二十分ほどバスに揺られれば着く地域。
 は、まったく接点の無いはずの二つを結び付けようとしている。なんで少し嘘をつかれただけで、こんな吐き気のするおぞましい想像をしてしまうのだ。荒唐無稽だ。馬鹿らしい。ありえない。そう必死に自分に言い聞かせる度に、同じくらい疑念が声を大きくする。

 青髭は、妻に言った。自分の留守中どの部屋に入ってもいいが、この小さな鍵の小部屋にだけは入るなと。言いつけを破って入ったその部屋には、六人の死が積み重なっていた。

「まさか、ね」

 はは、と空虚な笑いを零して、壁であり扉である部分に触れたまま立ち尽くした。
 だって、はこの部屋に入るな、なんてジャックに言われていない。屋敷のどの部屋でも好きに入っていいと、そう言われている。もう、彼だけでなくの家なのだから。隠し部屋だって、それは変わらない筈だ。

「何もあるわけない……あるわけ、ないのよ……」

 自分に言い聞かせるようにそう呟く。もしかすると、ジャックがこの部屋の存在を知らない可能性だってある。
 ──何か恐ろしいものを見つけたら貴方、どうするの。
 胸の内で、怯えた声がそうに聞く。
 分からない。分からない、そんなの。考えなくていい筈でしょう、そんなこと。そうでしょう?

「何もないんだから……」

 ええ、と。相槌を打ってくれる誰かが欲しかった。
 誰もいないのに独り言が止まらない。おそろしくて、心細くて、言葉を音にして静寂を埋めないと不安で仕方ないのだ。
 けれど、このまま何もせずにこの部屋を立ち去ることもできない。恐ろしい疑念を心に秘めたまま一生ジャックと過ごすことができるほど、は器用ではない。
 震える手で、見えないボタンを押す。密やかに、かちりと音がした。身体に力を入れて押せば、本棚の描かれた壁が動く。本当に、奥に部屋があるのだ。すべてが恐ろしくて、は目を瞑る。もう、後戻りはできない。
 鉛のように重く冷え切った足をどうにか動かして、歯の根が合わないほどに震えながら、現れた部屋へと歩みを進める。 ああ、どうか──どうか、何もありませんように──

「……え」

 そう祈って踏み入った部屋には、イーゼルとキャンバスがあった。壁に並ぶ棚には絵を描くための道具がいくつもある。呆気に取られて辺りを見回した。
 本当に、ただのアトリエだった。ひんやりとした空間には絵の具と油のような──ジャックからよくする匂いしかしない。なんで、こんな秘密の場所をわざわざアトリエにしているのだろう。何か恐ろしいものでもあったら、と恐怖していた時よりははるかにマシな気分ながら、困惑してしまう。けれど、キャンバスを見た瞬間それまで抱いていた感情すべてが吹っ飛んだ。
 イーゼルに置かれたキャンバスに描かれていたのは、だった。まだ途中だが、ベッドの中で、ぼんやりとしたランプの灯りに照らされて眠るが描かれている。何も怖いことなどないという風に、穏やかで安らかな寝顔をしていた。精緻で技巧が凝らされているだけでなく、その絵には慈しみと愛が溢れているのが筆遣いと表情から伝わってくる。先程までとまったく異なる感情で喉が詰まって、胸元を押さえた。
 ジャックはずっと、この絵を描いていたのだ。に気付かれないように、大学のアトリエに籠っての絵を描いていた。恐らく、昨日ちょうどがシャワーを浴びていた時にこの絵を持ち帰って、ここに置いたのだ。そうして、昨日の夜はここに来ての寝顔を思い返しつつ、最後の仕上げをしようと筆を動かしていたのだろう。

……なんてことを……」

 愛する人に対して恐ろしい疑念をかけていたことに対するひどい罪悪感と、ジャックに対する愛しさ、申し訳なさが胸をいっぱいにする。こんなに自分を想ってくれている人を、殺人鬼かもしれないと思うなんて。
 夫が自分の絵を描いていてくれたことを嬉しく思いながらも深く恥じ入って、は秘密の小部屋を後にした。
 その日の夜は、久しぶりにぐっすりと眠れた。

・・・

「君に隠していたことがある」

 が隠し部屋を見つけた数日後の夜。早くに帰ってきたジャックは夕食を終えた後、真面目な顔をして話し始めた。

「実は、少し前に仕事の絵は描き終えてたんだ」
「そうなの?」
「うん。嘘をついてごめん。……少し待ってね」

 立ち上がった彼は一度リビングを出て廊下の奥へと消えて、少ししてからまた戻ってきた。その腕の中には、数日前に見たキャンバスがある。ただし、絵の面はから隠されていた。

「本当は、この絵を描いてたんだ。君にプレゼントしようと思って」

 の前に座り直したジャックはそう言ってキャンバスを差し出し、の方へと絵を見せる。
 どうやって驚く演技をしようなんて思っていたのだけれど、改めて絵を見た瞬間大袈裟なくらいに息を詰めてしまった。完成した絵は更に美しく、愛がこもっていた。

「とっても、素敵な絵……」

 絵を受け取りながら、感動と喜びでつんと鼻の奥が痛くなる。泣きそうになるのを抑えてつっかえつっかえ言うを、ジャックはひどく優しい顔で見ていた。

「そうだろう? 自分でもよく描けたと思うよ」
「ええ、本当に素敵……でも、どうして急にこんなプレゼントを?」

 これは本当に疑問だった。わざわざに嘘をついて、隠してまで描きあげた絵。確かにサプライズでもらうプレゼントは嬉しいものだけれど、ここまでしなくたっていい気がする。
 首を傾げて言うにジャックは目を丸くして、それから大きなため息をついた。

「寂しいなあ、覚えてないのかい? 今日で結婚してから一ヶ月じゃないか!」

 心底申し訳なさそうに何度も謝り、同時にひどく幸せそうに笑う愛しい妻とくすくす笑いあって、おやすみのキスをしてから一時間ほど経ったろうか。
 少し不規則でぎこちなかったの呼吸が、深く長いものへと変わった。一定のリズムを刻み、夜の空気へと溶けていく。彼女が完全に眠り込んだのを確認して、ジャックはそっとベッドから抜け出す。寝巻きの上にガウンを羽織り、彼は寝室の外へと出てゆっくりと歩き出した。

 廊下に敷かれた質の良いカーペットは、部屋履きを履いたジャックの足音を吸い込む。辿り着いた先は、屋敷の地下一階奥の部屋だった。本棚が描かれた壁から一冊の本を取り出して、その間に手を入れる。慣れた手つきでボタンを押し、彼は隠し部屋の鍵を開いた。
 静かに扉を開けて、殊更静かにそれを閉める。偽の棚と本棚の間に完全に隙間が無くなってから、ジャックは閉じた扉に背中をつけて、一息ついた。

「……くっ、ふふ……」

 顔を俯けて、息を零すように口から漏らす。

「ははっ、はっ」

 次第に抑えていた笑い声は次第に大きく野蛮になっていき、最後には背中を折り曲げて肺の中の空気を全て吐き出す勢いで男は大笑いした。屋敷中に響くような声は、防音の素材に阻まれて外には漏れださない。
 散々笑ってからなんとか姿勢を正して、彼は息をつく。

「はあー……なんて……」

 なんて、なんておかしい。かわいらしい。我が伴侶は賢く、愚かで、勇敢で、臆病だ。
 相変わらず喉の奥でくつくつと笑いながらそう思い、男は笑いすぎて濡れてしまった目の端を長い指で拭った。
 彼女はせっかく頭がいいのに、あまりにも情が厚すぎる。一度愛してしまえば、疑うのが嫌になってしまうのだろう。だからといって全てを見逃すほどに甘っちょろくておつむの弱いわけでもない。本当に彼にとって丁度よかった。丁度いい塩梅に、賢く愚かな女だった。
 あと一歩。本当に、あと一歩彼女が歩みを進めていれば。あと一歩、考えるのを止めなければ。自分の真実に気づいていたかもしれない。そう思いながら、男はイーゼルを越えて、部屋の壁に飾ってある小さな額縁入りの絵に近づいた。
 壁から絵を外すと、後ろには小さく窪んだ空間とダイアルがある。そのダイアルを何度か回してから、彼は壁を強く押した。そうすれば壁は扉と化して前に開き、その奥にある筈のない空間が現れる。隠し部屋の、更に奥にある隠し小部屋。それが、男の隠していた本当の秘密だった。

 狭い部屋には、何本ものナイフと赤黒い肉塊があった。さながら芸術品のように、展示されている。夜のように底冷えのする空間には腐臭どころか血の匂いすらしない。完璧な防腐処理が行われ、部屋全体が冷凍庫のように冷えているからだ。
 自分にしか分からない規則に従って陳列されている戦利品を眺めて、男は機嫌よくナイフの背を撫でた。

 彼は、と結婚する以前から殺人を行っていた。そうして、いつか彼女がそれに気づいてしまう可能性も考慮に入れていた。だから、彼女が知ってしまう前にそこから少しずれた、秘密の一端のようなものを与えて、そこで満足させて事実に辿りつかないようにしてしまおうと決めたのだ。
 と共通の知人に絵の仕事が入ったこと、それを描き終えたことを伝える。次の日の朝に茶葉が無くなるよう調整しておけば、必ず彼女は知人の店へと買い物に行く。そこで疑念を持った彼女が仕事に行く自分を尾行するか、屋敷の中に何か証拠を探すか──どちらかをしてくれれば、それでよかった。そこで密かにジャックが描いていた絵を見て、自分はとんでもない勘違いをしていたと気づく。そうすれば、もう夫を疑うことはなくなる。
 すべて、最初から彼が仕組んでいたことだった。

 誰かに疑われた時にはしらばっくれるのではなくて、ほんの少しだけ真実を混ぜた、嘘の「正解」を与えてやればいいのだ。それも、その誰かが飛びつきたくなるような優しい「正解」を。疑いを持っていたことを恥じてしまうような、至極真っ当で誠意のあるものを。そうすれば、その者は二度と自分を疑わないだろう。もし疑ったとしても、前回与えられた「正解」のことを思い出して、深く考えることをやめる。

 ジャックは恍惚として、数日前までの、寝不足のあまり青い顔をしていた妻を思い出す。それから、不安が無くなってどこまでも朗らかに微笑む彼女も。自分の嘘のせいで頭を悩ませ苦しみ、自分のおかげで幸福になる彼女はあんまりにも哀れで愛おしかった。
 最初は、自分も世間体のためにそろそろ結婚しようかしら、と思っていただけだったのだ。適当に家柄の悪くない、大人しそうな女を見つけて籍を入れようと。けれど、と知り合って、交際して、気づけば自分でも驚くほどに彼女を気に入っていた。好いていた。笑えることに、愛してさえいた。
 綺麗なだけの女は好かない。彼が美しい女に求めるのは、その美しい顔を美しく歪めて、哀れに無様に命乞いをして、美しく死ぬことだ。それだけの存在なので、常に隣に置きたいわけではないし、その瞬間にしか興味が無いので、会話の相手になってほしいわけでもない。
 けれど、自分の伴侶となってくれるのだったら、話をしていて楽しく、退屈することのない、聡明で魅力的な女性がいい。だからといって跳ねっ返りでもなく、慎ましさも併せ持つ人。世間体の為の装飾品を持とうと思っていたはずなのにと知り合ってから、いつの間にかそう思うようになった。
 そんなと愛し合い、美しい女を欲望のまま殺して、人生を謳歌する。もうジャックの“良い子”の部分と“悪い子”の部分は完全に混ざり合ってしまっていたので、そんな相反する二つの感情を彼はうまいこと自分の中で消化していた。どちらも自分だ。

 彼女はいつか気付くだろうか。自分の伴侶たる男が、殺人鬼であることに。暗く冷たい夜を愛する、霧の男であることに。
 は馬鹿ではないので、またジャックに疑念を持つこともあるかもしれない。それでもきっと、今回の事を思い出して深く考えることをやめるだろう。ジャックが相当に疑わしいことをしない限りは。
 いつか気付いてもいい。気付かなくてもいい。どちらにせよ、きっと愛しい妻は自分を楽しませてくれるだろうから。
 低く鼻歌を歌いながら、男は口端を上げた。

めでたしめでたし、
後は知らない