鬼雨

※現パロ? 現パラ? 注意

 幽霊が見えるようになった。
 いや、もしかすると付喪神かもしれない。

 確か去年の盆が終わり、秋のとば口が迫ってからのことだったように思う。
 少し変わった髪形をした、痩せぎすの男がの近くに佇むようになった。見上げるほどに背が高く、心配になるくらいに骨と皮だけの身体をして、いつも憂いに満ちた顔をしている。服装はどこか古めかしくて、粗末に見えた。といっても近くでまじまじと見たことはないので、確かなことは言えなかったが。

 付喪神かもしれないと思うのは、見えるようになって少し経ってから、どうやら傘に憑いているらしいと分かったからだった。いつの間にか家にあった大きな黒い傘が依代──と呼んでいいのか定かではないが──らしい。買った覚えのない傘が玄関にあるのは割と気味が悪い上に邪魔でもあったが、何故だか捨てようとは思えなかった。も相当に頭がおかしい。今覚えば、最初の内から親近感じみたものを感じていたのかもしれない。
 現代で流通しているポリエステルやビニール製の傘とは違う造りをしたそれは古ぼけてずしりと重たい存在感を放ち、そのくせ幻影のように時折透ける。
 幽霊も傘も最初は幻覚かと思ったけれど、特に精神を病むような出来事は身に起きていなかった。念のために病院に行って脳の検査をしても、特に異常なし。恐らく超常現象的な存在なのだろう、とは結論づけた。前述した通り最初は気味が悪かったが、不思議なくらいに悪意を感じなかったので1ヵ月もしないうちに慣れた。ちなみに寒気は少しする。

 幽霊には、見える日と見えない日がある。何故なのかと思っていたけれど、途中で法則に気付いた。傘というものの役割を考えればある意味当たり前のことであるのだが、彼は──彼等は、雨の日にだけ見えるのだ。
 そう、一人ではない。二人だ。よく似た顔をした二人の男が、いつからかの中では雨の日と等記号で結ばれるようになっていた。
 二人はまるで反転させたように顔の模様や服の色、髪の色が違う。けれど二人とも同じ大きな黒い傘を差して、少し離れたところからじっとを見つめていることは変わりなかった。彼等が話しかけてくることも、なかった。
 時々その死人のように血色の悪い唇が動くのは見えたが、そこから音が漏れることはない。彼等が唇だけを動かしていたのか、の耳が音を拾えなかったのか、どちらかは分からなかった。

 自然、雨の季節である梅雨になるとその姿が見えることが多くなる。そうして──憑かれてから1年弱も経った頃にようやくであるが──は少しずつ、声を聞いたこともない彼等のことを知るようになっていった。
 服が黒い彼は水辺に近づいた時の方が見えることが多い。川の横の道。海岸。橋の下。二人とも雨が激しい時ほどよく──色濃く存在が見えるのに、そういった時の方がかえって苦しそうな顔をしている。そして、何故かは分からないけれど、二人の姿が同時に見えることは、なかった。
 彼等から声をかけられることはなかったが、こちらから声をかけたことも一度も無かった。古今東西、自分にだけ見える異形の者に語り掛けなどすれば凄惨な結末を迎えると道理が決まっている。はまだ死にたくなかった。少なくとも、幽霊に呪われるなんていう形では。

 けれど、その日は本当にひどい雨だったのだ。
 地面に叩きつける飛沫と木々を折りそうな勢いで吹きすさぶ風で、ごうごうと世界が唸っていた。近くの川が堤防を超え、溢れそうな程に増水している。
 恐らく今年一番になると思われる台風の中、もみくちゃになりながら家へと向かう道の先に彼は見えた。激しい雨の中でぼうっと浮かぶように佇んで、今までで一番亡霊らしかった。
 50m以上離れている。視界だってこれ以上ないってくらいに悪い。それなのに、どうしてだか彼の表情が分かる気がした。なんていうか、多分──死にそうな、顔。

 今にも折れそうな傘を盾みたいに前に突き出して一歩一歩前に進む。少しずつ、雨粒と風の中を泳ぐようにして距離が縮まっていく。帰るにはどうせ進まなきゃいけない道なのに、今は彼に向かう道のように思えた。

 風邪を引いたなめくじよりもゆっくり進んで、はこれまでにないくらい幽鬼の近くに立っている。ようやく見えた顔は、やっぱり、今にも死にそうに見えた。絶望と焦燥と、叫び出したいほどの恐怖に塗れた顔。
 黒い大きな傘の下に──彼のことは守っても、への雨は防いでくれない大きな傘の下に立って、多分初めて彼と目を合わせた。

「──大丈夫」

 切れ長の目が、これ以上ない程に見開かれた。
 彼へと言い聞かせる言葉だったのか、彼へと尋ねる言葉だったのか。自分でも分からないまま、そう口から零れ出ていた。

 前の日の晩に、夢を見た。夢の中のは、あの幽霊二人と話していた。窓に映った自分を見れば彼等と同じように古めかしい格好をしていて、今の自分とは違う髪形をしていた。彼等はいつも雨の日に見える時よりずっと楽しそうで、笑いながらと話をしていた。
 起きた時に感じた哀惜の念が、昼を過ぎて夜になっても、地面を叩く水滴よりも激しくの心を穿っていた。
 だから、夢の中とはかけ離れたひどい顔を、これ以上黙って見ていたくはなかったのだ。

「大丈夫」

 繰り返すと、薄い唇がわななき震えた。
 開いた口が紡いだ言葉は、と、きっともう一人の彼のみが知っている。