盛夏

※現パロ? 現パラ? 注意

 今年は社会人になってから初めての夏で、就職と同時に引っ越してきたこの町の空気にもすこしずつ身体が馴染んできている。繁華街は近くに無く、だからといって侘しすぎるわけでもない、落ち着いた町だ。まだ越してきて半年も経っていないが、今のところ町にもアパートにも不満は特にない。家賃があまり高くない地域だからか、海外からの留学生や労働者がある程度いて、様々な地域の食材店が近くにあるのも物珍しくて好きだった。

 今日は残業もなく直帰できたし、自炊しようか。野菜でも買って帰ろうか、それから前から気になっていた姜葱醤も……なんて思いながら降り立った最寄り駅の雰囲気は、どこかいつもと異なっていた。自然、辺りを見回す。
 違和感の源はちらほらと視界に咲く紫陽花だった。浴衣を着た女の子がそこかしこに居るのだ。どの子もどこか浮き足立っている。
 なにかしら、と思いながら改札をくぐり、商店街へと向かう。歩を進めるうちに人が増えていき、どこか浮かれた雰囲気が強くなっていく。毎日通る商店街の入り口に立って、なるほど、とようやく納得した。
 ──祭りだ。
 思い返してみれば、今朝は駅へと向かう道の街灯が、いつもと違って赤く丸い飾りをつけていた。今は明かりを灯され、湿気を含んだ八月の夜空を煌々と照らす提灯は夏の星とおなじに眩しい。いつもは家族連れの声がするだけのこじんまりとした商店街が、がやがやと喧騒に満ちて一つの大きないきもののように蠢いている。
 友達連れや家族連れ、恋人達が楽しむ中に一人で入って寂しくならないものか……回り道をして細い路地を抜けようか、と少しだけ逡巡したが、屋台に背を向けて帰る方が余程悲しくなりそうだと思い至り、はいつもと様変わりした商店街を通り抜けることにした。

 砂糖にカラメル、おまけにソース。ぱちんと弾けるサイダーの泡は透明な空の色をしている。艶めいて濡れる赤い果実の音はかしゅりと耳に心地よい。色に光に匂いが溢れて、すべてが乱雑なまでに鮮やかに主張する。眩しいほどでありながら、最後には形容しがたいすべてが混じってぼやけたものになる。
 湿気の強い夜の大気に屋台をひやかす人々の声が満ちて、陽炎のように揺れている。突発的にこの場に加わったでさえもなんだか浮かれた気分になってしまう。
 せっかくだし、何か食べ物でも買って帰ろうかな。……ちゃんと自炊しようと思っていたのに、ちょっぴり罪悪感が無いわけではないけれど。せっかくのお祭りだ。
 じゅう、と水気を含んだものが熱い鉄板に押し付けられる音がして、ついと首を動かす。犬のようにすんと鳴らして見た先には、豪快に持ち上げられる黄色いちぢれた麺と野菜に麺があった。焼きそばだ……!
 釘づけにされたようにじいっと屋台を見つめてしまう。空きっ腹を刺激する濃い匂いが鼻腔を通って喉まで満たし、喧騒に紛れながらも腹の虫が鳴くのを自覚する。肺の奥まで香ばしい匂いを吸い込んで、は屋台へと向かっていった。

你好、小姐やあ おじょうさん。炒麺はいかがかな?」

 銀色のヘラを握る長く筋張った大きな手の先を辿っていくと、痩身長躯のお兄さんと目が合った。

「ちゃーめん……」

 お兄さんが言うと爽やかに響いた音は、が繰り返すとなんだか間が抜けている。

「中華風焼きそばさ。美味いぞ」

 少し尖った爪の先がす、と屋台の前に貼ってある値札を指す。500円……うむ。

「1つください……!」

 決めた。自炊はまた今度。

「まいどあり」

 にっと笑って、お兄さんは鉄板の横のプラスチック容器を手に取った。やった、出来たてだ! ワクワクそわそわしながら熱々の炒麺が容器に詰められるのを待つ。今気づいたけれど、お兄さんはソースと油の混じった白い水蒸気越しでも、ひどく整っていることが分かる顔をしている。

 衝動的に買ってしまったけれど、他の屋台も見てから考えた方が良かっただろうか。そう思いながら待つ間に隣の屋台へと目をやって、予想外の内容に少しだけ面食らった。食べ物の屋台じゃない。射的の出店だった。こういうのって普通、似たような屋台が連なっているものではないだろうか。いや、まあもちろんここが切れ目と言うこともあり得るだろうけど。
 お菓子だとかお面が景品だろうか、なんて想像しながら奥の方を見てみればなんだか予想外のラインナップでまた驚く。お菓子はある。玩具もある。けれど……何か少し、変わっている。あれって、もしかして月餅では? その隣にあるのは水晶の欠片だろうか。なんというか、全体的にあんまり子供向けには思えない。一体どんな人が開いているのかしら。少し俗な興味を抱きつつ、そっと視線を店主の方へと向けようとした。

「できたぞ」

 声をかけられ、はっとして炒麺のお兄さんに視線を戻す。目が合うと彼は少しだけ首を傾げた。

「あっ、500円ですね。ごめんなさい、今出します」
「急がなくて大丈夫だ」

 鷹揚な返事にお礼を返しつつ鞄を漁る。仕事用に使っているそれは結構大きくて、中を覗き込むようにして財布を探さなければいけない。失敗した、先に用意しておけば良かった。

美女おねえさん、ごはんの後に射的は如何ですか?」

 俯いて財布を探すの耳を柔らかな声がくすぐって、思わず手を止めて顔を上げる。声の主と目が合って、三度目の衝撃。今度こそ間抜けに固まって、射的と炒麺の屋台を交互に見た。

 二つの屋台のお兄さんたちは、そっくりの顔をしていた。ようやく見つけた財布からワンコインを出して渡しつつおずおずと聞くと、意外なことに否定が返ってくる。

「いいや? 他人さ。赤じゃなくて白と黒のな」

 形の良い大きな口の歯を嫌味なく見せて、炒麺のお兄さんはからからと笑った。対照的に、射的の屋台のお兄さんは優雅に口端を少しだけ上げて微笑んだ。
 白と黒。言われてみれば、まるで陰陽図のように面白いほど対極的な二人だ。そういう意図をもって造られた芸術品のようですらある。しっかりと胸を張って立ちヘラを振るう炒麺のお兄さんと違い、射的のお兄さんは少しけだるげな雰囲気を持って椅子に座り、頬杖をついてを見つめている。種類は異なるが、二人とも恐ろしいくらいにいい男だ。

「お代をどうも。射的はやらなくてもいいぞ」
「ちょっと、無咎。私もお姉さんと話させてくださいよ」

 ねえ? と射的のお兄さんはへと優美な笑みを向けた。500円をしまった無咎さんは出来上がった大量の炒麺を手際よく容器へと詰めていっている。

「こっちは無咎、私は必安です。射的は……もちろん無理にとは言いませんが、結構楽しいですよ。参加賞もありますし」

 長く細い手で顎を支えたまま、射的のお兄さん改め必安さんは小首を傾げた。細い顎から首にかけてのシャープなラインが屋台の明かりに照らされる。はっとするほどに色っぽくて女のがドキッとしてしまう。
 もう一度、ちょっぴり風変わりな景品の並ぶ屋台の奥の壁を見やった。うーん、100円で3回か。社会人としては痛くも痒くもない出費だし、景品もお面なんかではないから、何が当たっても困ることは無さそう。

「……やります!」

 小さい頃に行ったお祭りでは50円払うかどうかすら大悩みだったのに。大人になるってこういうことなんだな……。
 嬉しいようなさみしいような、何とも言えない気持ちになりつつニコニコと笑う必安さんから射的銃を受け取った。
 そうして構えてから、思い出した。

「あらら、残念。参加賞です」

 はこういうの、からっきしだったってことに。
 特別に欲しいものがあったわけではないけれど(強いて言うならば一番最初に目に入った綺麗な水晶の欠片が気になっていたのでそれを狙ってはいた)、我ながらあんまりにもノーコンでちょっぴりしょげてしまう。項垂れて必安さんに銃を返すと、手を止めてが射的を行うのを見ていた無咎さんが「惜しかったな」と慰めてくれた。優しさが染みる。
 参加賞として必安さんから渡されたのは細い竹の板だった。上のほうには丸く穴が開いていて、紐が通されている。──栞だ。
 磨かれた表面には恐ろしく達筆な毛筆で二十字の漢字が書かれている。華奢で繊細なそれをしげしげと見つめて、必安さんに尋ねた。

「これ、漢詩ですか?」
是的せいかい! ちなみに詩を考えたのは私で、書いたのは無咎なんですよ」
「えーっ、すごい! 自作の詩に、直筆なんですね! こんな素敵なものが参加賞でいいんですか?」

 ちょっと申し訳ない気すらする。だって、たった100円でこんな、お洒落な雑貨屋さんで手に入れるような代物を手に入れてしまうなんて。むしろ射的の景品としてですらもったいないくらいの物じゃないだろうか。

「いいんだ。実を言うとそれ、一字書き損じてるからな」
「なるほど……」

 悪戯をばらす少年のような口調で無咎さんがこっそりと言ってくるのに笑ってしまう。それでも、とっても素敵なものであることに変わりはない。家に帰ってからじっくり見てみよう。いそいそと栞を鞄にしまって、少しの間放置してしまっていた炒麺の容器を手に取った。まだアツアツだ。

「炒麺も射的も、ありがとうございました」
「おや、つれない方だ。もう行かれるんですか?」
「せっかくだし、ここで食べていけばいい」
「えっ」

 驚いて瞬きをしている間に、無咎さんが屋台の裏からパイプ椅子を持ってきて、二つの屋台の間に置く。

「そんなこと言ったって、お客さんが来るでしょう? 邪魔になっちゃいます」
「いいんだ。俺のところも必安のも、あんまり人は来やしない」

 本当だろうか。炒麺はこんなにいい匂いをさせているし──お腹の空いたがふらふらと近寄って行ってしまったくらいにだ──射的の景品だって変わってはいるものの、だからこそ人の目を引きそうなのに。
 きょろきょろと周りを見渡すも、確かに人混みはこちらの屋台にあまり興味を向けていないように見えた。どこか、奇妙なくらいに。

 まあ、店主のお二人が言うならお言葉に甘えようか。せっかく椅子も用意してもらったのだし。そう自分を納得させて椅子へと座り、さっきとは違いそっくりな笑顔を浮かべる二人の見る中、は炒麺の蓋を留めていた輪ゴムを取り、割り箸をパキンと割った。

「いただきます」

 青菜と麺を箸に乗せて宙に浮かせる。立ち上る湯気とソースの匂いがますます食欲を誘って、大きく口を開けた。濃い目に味付けされた麺と具は、びっくりするくらいに美味しい。
 最初に箸で取り上げた分の炒麺をすべて胃の中へと収めてから、肩越しに振り返っての様子を見ていた無咎さんに、にっこりと笑いかけた。

「すごく美味しいです!」
「そりゃよかった」

 にかっと笑った無咎さんはまた鉄板へと向き直る。代わりに必安さんがへと話しかけてくれた。

「口に合って良かったです」
「はい、本当に美味しいです」

 もぐもぐと咀嚼しながら柔らかな声に相槌を打つ。彼の切れ長の目はゆるく細まりを見ていた。

「お二人は各地のお祭りを回ってるんですか?」

 大体の場合、こうやってお祭りに出店を出している人たちは自分の住む町で屋台を出すだけでなく、夏から秋にかけて全国を回るらしいと聞く。炒麺を食べる合間に尋ねた問いに返ってきた答えはどこか曖昧だった。

「そうですねえ、そういったこともしていたり。他にも色々したり」

 色々……。その言葉が例えばどんなものを含むのか非常に気になるけれど、初対面の身では突っ込んで聞くのも躊躇われる。物分かりがいい振りをしてなるほどと頷けば、必安さんは少しおかしそうに親しみを込めた笑いを零した。

「私達のこともいいですけど、お姉さんのことも教えてくださいな。まだお名前も聞けていないでしょう」
「そうでした、ごめんなさいったら。です」

 お二人は名前をとっくに教えてくれていたのに。慌てて教えると「さん」と必安さんは舌に馴染ませるように何度か繰り返し、嬉しそうに細面をほころばせた。

さんは祭りがお好きでここに来たんですか?」
「お祭りも好きですけど、ここが最寄りなんです。仕事から帰る途中にお祭りがやっていることに気付いて」

 事情を説明すれば得心いったという風な声が返ってくる。今のはオフィスカジュアルな服を着ていて、鞄も仕事用のものだ。あまり祭りに行くといった装いではないので、納得したのだろう。
 会話に隙間ができたので、一度閉じていたプラスチックの蓋を開けて炒麺をまた食べ始めた。少し冷めても十分美味しい。食事を続けるを眺めながら、ふいに必安さんは口を開いた。

「しかし……私の聞き方もあったかもしれないですが、そう簡単に男に住んでいる地域を教えるのは感心しませんね。世の中悪い奴がいっぱいなんですから、もう少し用心深くないと」

 先程より重々しいトーンでの忠告に瞬きをする。

「そうでしょうか」
「ええ。さんのように素敵な方なら尚更」
「お上手ですね」

 それでも必安さんのようないい男に言われれば悪い気はしない。笑って流すと「本気ですよ」と少し拗ねたような声が言う。それにもまた曖昧に笑いを返すと、ますます柳眉が寄せられた。先程までのアンニュイな雰囲気と変わって案外かわいらしい人だな、と呑気に思いながらはまた麺をすすった。
 祭りに屋台に美丈夫が二人。なかなか夏を満喫しているかもしれない。