春泥

「……春が来る」

 鬱々とした響きを乗せて、血の気の無い口唇は音を紡ぐ。白い歯の間から、雨の日とまるで変わらぬ憂いと苦痛が零れる。謝必安の声は低く重い。
 彼の言葉を聞いて仰いだ、鈍重な灰色の空とよく似ている。

「明るい季節が嫌いなの」
「明るいものか」

 吐き捨てるような口調だった。

 ほんの少し、いつもより寒さが和らいでいるように感じられる日だった。雪は残れど増えはせず、陽は以前よりも幾分長い。長く厳しい冬の終わりは紗を一枚隔てたほどに迫っている。彼の言う通り、春が近づいているのだ。

 館の正面の扉へと続く道は雪の合間からぬかるんだ地面を見せている。歩みを進めるごとに霜と土が互いの境界を壊し混ぜ合わせ、白と黒をすべて一緒くたにする。時折足が取られるのが些か不快だった。
 まとわりつく感触から踵を引き抜いて、隣を歩く男の顔を伺う。人に非ざる白と黒の入り混じった頬は頑なに強張って負の感情を伝えていた。

「命が目を覚ますでしょう」

 また声をかけても、必安の表情は露ほども緩みはしなかった。一歩先の地面を睨むようにして、彼は歩いている。そこに怨敵でもいるかのように、憎しみを込めた視線だった。

「寒空の下息絶えたものを糧にして生き残った命だ」

 怒気の籠った声が言葉尻を荒くする。大きな黒い靴の尖った爪先が、泥で濁って汚れていく。その白い服まで届きはしないが、跳ねた飛沫は彼の足へとこびりつく。醜く崩れて溶けた地面が、彼の歩みを阻まんとする。忌々しい、と必安は呟いた。

「弱者を踏みつけにして、強き者のみが残る」

 寒さは万人に対して平等に訪れるが、それを防ぐ術が公平に与えられることはない。世は、ごく当たり前に不条理を敷く。弱き者は弱いまま。強き者は更に富む。そうして季節は変わってゆく。そうして世界は廻ってゆく。戻らずに。顧みずに。

「そうして皆、冬があったことをすぐに忘れる」

 仇敵に相対しているように、必安は雪の隙間から溢れた泥土を見据える。その下で今か今かと辛抱強く強かに、貪欲に春を待つ命を縊り殺してやりたいと、瞳の白が言っていた。

「強く温かい清風に心を躍らせて、倒れてしまったもの言わぬ命を振り返りすらしないのだ」

 手に持った黒傘の柄が強く握り込まれる。幽鬼のような肌は如何ほど力を込めようとも色を変えはしない。必安が吐き出しきれぬ感情を万力に変えようとも、その細く節ばった関節は、人がそうした時のように白く浮き上がりはしなかった。

 ふいに彼は歩みを止めて、こちらを見た。苦々しさと憎しみに染め上げられていた目が、どこか縋るような色を持つ。やりきれない、と切れ長の目が苦痛を訴えているようだった。助けを求めているようで、同時にそれを恐れているようで、どうすればいいのか分からず途方に暮れているようでもあった。
 八尺のごとき長躯を持つ痩身の男が、まるで帰り道を失った幼子のように見えた。

「春が来る」

 低い声は地に落ちる。土を割って深層へと潜り込み、地に満ち根の深くまで染めゆく。
 それはひどく、怨嗟に似ていた。

「死体に花が芽吹くだろうさ」