踊るなら君のてのひらで

「フーゴって、字まで綺麗なんだね」

 思考に深く沈み込んでいた中かけられた声に、肩を揺らして振り返る。後ろに立つは、フーゴの手元にあるノートを覗き込んでいた。
 頬杖をつきながらペンを握っていた青年は慌てて背筋を伸ばした。

 つい先程本を読み終わったので、思ったことをざっくりとまとめていたのだ。自分だけが分かれば良いように、断片的に。こういう読んだ直後に浮かんだ感想や思い付きは、頭の中に留めるよりきちんと言葉にしてなんらかの形に残した方が思考もまとまりやすいし、後々役に立つ。
 声をかけられるまで後ろに立たれたことに気付かず驚いてしまったのも、自分用の走り書きを見られていることもなんだか気恥ずかしくなって、フーゴは一瞬言葉に詰まる。固まった後に口から出てきたのは「そんなことないですよ」という面白味も何もない返事だった。
 すこしかすれた声を聞いて、髪が触れそうなくらいに近くに立っていたは一歩後ろに下がる。

「ごめん、勝手に見て」
「いや、構わない」

 フーゴは慌てて首を振った。それは本当なのだ。別に、大したことを書いているわけでもない。見られても見られなくても何も変わらないような代物だ。
 ただ、いつもきちんとした姿を見せたいと思っている相手に、気を抜いているところを見せてしまったのが気恥ずかしいだけで。それはくだらないことだったけれど、どれだけ殺伐とした世界に生きていても、恋をしている十六歳の青年には、大真面目に失態だったのだ。
 情けない、と己を叱咤する。いつだって余裕のある姿だけを見ていてほしいのに。

「なんというか、頭の中が整頓されてるのが滲み出てる感じ」

 フーゴが頭の中で己の気の抜けようを恥じていることはまるで知らずに、彼女は字への感想を述べる。そのままフーゴの横に座って、先程まで彼がしていたように頬杖をついた。あんまり行儀は良くないが、柔らかな頬が華奢な手で押される様はどこか無邪気にフーゴの目へと映る。

はあんまり字が上手じゃないからなあ。フーゴの字、素敵だなって思う」
「……ありがとう。僕は君の字、好きですよ」

 照れくさくなりつつ少し癖の強い彼女の字を思い出して素直な感想を述べると、青いインクで書き連ねられた筆記体に向けられていた視線はようやっとフーゴの方を向いた。

「本当? ありがとう」

 ひどく嬉しそうに顔を緩めて、テーブルに頬杖をついたままはフーゴへと笑いかけた。屈託のない輝きに心臓が一つ階段を踏み外す。
 任務のため艶やかに装っている時や戦闘中の凛々しい横顔も好きだけれど、こういう何の含みも無い素直な言動にこそ馬鹿みたいに脈が速まって、心底己は彼女が好きなのだと思い知らされてしまう。
 好きなのは君の字だけじゃないんだ。本当は。
 そう言うことができればよっぽど楽になるのだろうが、まだそうする自信は持てない。

「ねえ、の名前書いて」
「……えっ?」

 ちりちりと燻る思いを吹き飛ばすような突拍子もないお願いに、フーゴは思わず声を上げた。その後で内心舌打ちをする。また間抜けな反応をしてしまった。

「フーゴにの名前書いてほしい。えーっと……あった! これに書いて」

 ごそごそとポケットを漁って小さなメモ帳を探し出したは、ぱらぱらとページをめくって中身を確認してから1枚破き、フーゴの前に置いた。彼もよく見ている、いつも彼女が任務のちょっとしたことなどをメモしているものだ。普段使いのそれは少しだけよれているが、渡されたページはまっさらだった。

「これに、書くんですか? 君の名前を?」
「うん。ダメ?」

 そりゃあ、ダメじゃあないけど! 急になんだって言うんだ! 書いた紙をどうするんだ、一体。
 叫びたい気持ちは山々だったが、聞いてみた場合どんな返事が返ってくるのかまるで想像できずに口ごもる。こんな時に覗き込むように顔を見上げてくるなんてずるいじゃないか。僕は君のその目に、角度に弱いんだぞ。もしかして知っていてやってるんじゃあないだろうな。早口で問い詰めたい気分だ。
 よく見てみるとA4の9分の1サイズのメモなんだな、なんて今はどうでもいいことへと意識を意図的に逸らしつつ、結局フーゴはもごもごと口の中で「問題ない」というようなことを呟いた。
 いつの間にかじっとりと汗の滲む手で改めてペンを握り直し、小さな紙へとの名前を綴っていく。できるだけ、丁寧に。けれど、丁寧すぎないように。変に気取りすぎて気持ち悪いだなんて思われたら嫌なので。
 そんな細心の注意を払って書き上げられた己の名前を見て、はぱあと顔を輝かせた。まだ青いインクの乾き切らないメモをフーゴから受け取り、なおも嬉しそうに笑う。

「ありがとう! ふふ、持ち歩こうっと」

 洗濯しないように気を付けなきゃ! なんてはしゃいだ様子で言いながら、上機嫌な彼女は椅子から立ち上がる。沸き立つ喜びを体で表すようにくるりとその場で一回転して、大切そうに紙の切れ端を胸に抱きしめた。

、これから任務だから行かなくっちゃ。チャオ、フーゴ!」
「あ……ああ、チャオ」

 白魚のような指をひらひら振ってアジトから出ていくのに、青年は呆気にとられながらもなんとか返事をする。勢いよく開いて閉じたドアの向こうから一瞬差した太陽の光が眩しくて、少しだけ目が眩んだ。

 通り雨みたいにいなくなったの先程まで座っていたスツールを見ながら、自分も彼女に己の名前を書いてもらえばよかったなんて、今更ながらに後悔した。