水に燃えぬ凍蝶よ

単行本未収録分137話バレ注意
※捏造、妄想だらけ

「──さん、さん!」

 水中から頭を上げたように、意識が浮き上がる。唐突に五感全てがクリアになる感覚。急に世界へと放り出されたように、ぽっかりと身体が浮かぶ。数拍置いてから顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込む悠仁くんと目が合った。

「……ごめん、何か言った?」
「や、そんな大したことは言ってないんだけど。大丈夫? 疲れた?」
「ううん、ぼーっとしてただけ。ありがとね」

 首を振って笑いかけると、安心したように少年の面持ちが緩む。差し出された悠仁くんの手を握って、いつの間にか止めてしまっていたらしい足を動かした。

 春と呼ぶにはまだ些か寒すぎるし、陽も短い。けれど数週間前よりは確実に暖かくなっているし、夕暮れも遅い。そんな2月半ばの日、悠仁くんとは一緒に任務へとあたっていた。先程無事に祓うことができたので、少し離れた所で待ってくれている伊地知さんの車へと向かっている。──そうだ、任務をしていたんだった。今更のように思い出す。

 今日は普通の木曜日だし、祝日でも何でもないけれど、ちょっとにとっては特別な日だ。正確に言えば、と悠仁くんには。

「バレンタインに任務だなんてツイてないよね。職業柄、自由に休みが取れないのは分かってるけどさぁ」

 そう、今日はバレンタインなのだ。恋人たちの特別な日。血生臭い業界にいるとはいえ、恋人同士の悠仁くんとにも変わらず特別な日だ。ため息をついて愚痴ると悠仁くんは宥めるようにの手を何度かぎゅ、ぎゅっと握った。

「でも一緒の任務にしてもらえただけマシじゃない?」
「まあね~。五条さんが手回してくれたのかもね」

 達が付き合っていることを知っている人は少ない。昨年度まで高専生だったとはいえ、はもう成人しているので未成年と成人の組み合わせだし、悠仁くんはその特殊な背景から敵も多い。色々な事情があって、あまり関係を公にはしていないのだ。釘崎ちゃん、伏黒くん、五条さんに伊地知さんくらいにしか伝えていない。
 五条さん──卒業したおかげであの人を先生と呼ばなくてよくなり嬉しい──は色々と適当だしどうしようもない所もあるけれど、あれで意外と教え子の青春は尊重してくれる。だから、今日の任務も悠仁くんを同級生二人と行かせるのではなく、と行かせてくれたのかもしれない。

「チョコ持ってきたから、後で渡すね」

 温かい手を握り返して言うと、悠仁くんはばっとこちらを向き、目を輝かせた。

「やったー! あざっす!」

 付き合っているのだからバレンタインを忘れている筈もないのに今日初めに会った時も全然チョコの催促なんてしてこなくて、本当にできた子だなあ……と思っていたのだけれど。いざこちらから話に出せば、ここまで喜んでくれるのが嬉しい。

「手作り? それともお店の? どっちでも嬉しいけど!」

 心底嬉しそうに聞いてくる悠仁くんにつられても笑ってしまう。いい彼氏を持ったな。

「手作り! 自炊はするけどお菓子作りなんて全然だからさ、最初は買ってこようと思ってたんだけど……ほら、店がどこもさあ。開いてないでしょ」
「そうなの?」
「そうだよ。だって──」

 言葉を続けようとした瞬間、ずきりとこめかみが疼いた。釘を刺されたような鋭い痛みに思わず顔をしかめる。おかしいな、そんなに大変な任務じゃなかったんだけど。頭もどこも、ぶつけたり切ったりしていない。

「だって、」

 ……だって、なんだっけ。
 頭痛が消えても続ける言葉は出てこない。どうしてお店はどこも開いていないのだろう? 伊勢丹も、高島屋も、大丸も。どんな百貨店も開いていないと思ったのは、何故? 急に浮かんだ疑問に立ち尽くして、俯いた視線の先に映る自分の爪先を見つめた。
 ざらり、と。冷たい舌が背筋を舐める。寒気に似た不安が首筋を食む。呪霊の気配とは違う、もっと、寂しさに似た。寄る辺のない子供のような、寒空に放り出されたみたいな孤独。
 頭を振って、心の靄を散らす。こんな不安、理由のないものだ。そのはずだ。

「悠仁くん」

 ひどく心細くなって、恋人の名を呼ぶ。
 繋いでいる筈の手を見やると空っぽになっていて、身体の芯まで恐怖が満たした。
 弾かれたように顔を上げるとそこにいる筈の少年はいなくて、は独りだった。



 叩き起こされたように目が覚めた。勢いよく起こした上半身に汗で寝間着が張り付いている。荒く息を吐きながら枕元のスマートフォンの画面を付けて時間を確認すると、2月15日の午前2時だった。

「……あー……」

 画面を消してスマートフォンを放り投げる。さっきまで見ていた夢の残滓がはっきりと瞼の裏に残っていた。
 甘ったれた夢を見たものだ。改めて処刑命令が出された恋人と任務を受けて、一緒に過ごす夢なんて。

 色々あって知り合って、恋に落ちて、付き合った年下の恋人。彼がいつか処刑されることはよく分かっていたけれど、それでもどうしても気持ちを抑えきれなくて、終わりを互いに知っていながら始めた交際だった。

「──知ってたつもりだったんだけどなあ」

 別れは思っていたよりずっと早く訪れた。現在は「渋谷事変」と呼ばれている出来事をきっかけに、日本は変わってしまった。
 ハロウィンが終わって、クリスマスが過ぎて、年を越した。東京にはもう、まともな都市機能は残っていない。ハロウィン直後から術師総出で都民の避難を先導し、そこかしこから湧き出る冗談みたいな数の呪霊を祓って、気づいたら数ヶ月経っている。流石に11月、12月頃よりは状況への対応案などが確立されてきているけれど、決してハロウィン前の日本とは違う。街は壊滅状態で、都内には術師及び関係者か呪霊、そして逃げ遅れた一般人しかいない。

 はあの日術師として渋谷に居たが、悠仁くんとは別行動をしていた。が日付が変わるころ突如湧き出た異常な数の呪霊の対応に追われている内に、彼は他の数人と共に消えていた──らしい。だから、あの時何が起きたのかも、彼がどこに行ったのかも知らないし分からない。けれど、五条さんと夜蛾学長が渋谷事変を起こしたわけないことも、悠仁くんが進んで虐殺を行ったわけがないことも分かっていた。けれど二級のがそんなことを訴えても上層部が動くはずもない。力のないには、何もできない。これほどまでに自分の無力を痛感したのは初めてだった。

 バレンタインなんて気にしている場合じゃないのに、どこかで期待をしている自分がいたのだろう。悠仁くんが来るなんてありえないのに、なんとなく手作りチョコなんて作ってしまった。ご丁寧にメッセージカードまで付けて。贈る相手がいないそれを眺めて、どうしてか自分で食べてしまうこともできず、眠ることにしたのだった。眠る直前まで悩んでいたので、チョコはスマートフォンのすぐ近くに置いてあった。

「馬鹿だなあ」

 心底の気持ちが声に出た。返事をしてくれる人は、もちろんいない。

 チョコは届かないし、悠仁くんはどこにいるかも分からない。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。でも、会えなくてもいい。の事なんて忘れてくれていいから、どうにか遠い所へ逃げて、誰も追いつけない、知らない場所で幸せになってくれたらな。

 既製品なら1ヵ月くらい大丈夫かもしれないけれど、手作りだと1週間くらいでダメになるだろう。チョコが腐ったら、の馬鹿げた未練も消えてくれるだろうか。そうだといいな。
 祈りに近い気持ちを抱いて、は不格好なチョコを眺めた。