ながい時間

※大学生設定

 冷たい空気が頬を撫でる。
 先ほど終電が駅を離れたホームの時計は午前一時を少し過ぎた時間を指し示していた。
 ベンチの隣に座る影山君は酔いでかすかに頬を火照らせていて、きっと同じように赤い顔をしたはふわふわとした非日常感になんとも言えない心地よさを感じている。一人二人、まばらな人がぽつぽつと向かいのホームの階段を下りていくのをぼんやりと眺めながら白い息を吐いた。

 今日は同じ演習を履修している学生30人ほどでの飲み会だった。この演習は週に1度だけだし、自分で履修を選ぶ選択演習ではなくて大学側がクラスを決めた必修演習だ。サークルのように気が合う人ばかりとは限らない。盛り上がるか心配で直前まで迷った挙句参加を決めたのだけれど、選択演習でなくても同じ学部で似たようなものに興味を持って勉強する者同士で話すのは中々楽しくて、勉強以外にも趣味の話や中高時代の話へと話題は広がり、飲み会はとても楽しいものになった。最初は企画されていなかった2次会も急遽決まり、9時頃には1次会から3分の1ほどに人数を減らして安い居酒屋へと移動した。
 は1次会も2次会も、ずっと影山君と話していた。演習での発表グループも同じになったことは無く、今まで喋ったこともなかった彼と1次会で向かいの席になったのは本当に偶然だ。単純に店へと入った順に席に座っていった結果下の名前すらあやふやであった影山君と向かい同士になった時はかなり不安で話が弾まなかったらどうしようなんて思っていたけれど、びっくりするぐらい気が合ったたちは今まで演習で喋らずに過ごしてきた時間を惜しむように二人で話をした。
 初恋の相手、中学での部活、アルバイト、高校での出来事。
 授業ではひどく寡黙で教授に指されたり発表をする時しか聞くことの無かった影山君の落ち着いた優しい声がぽつぽつと口から紡ぐ話はどれも淡々としていながらもとても暖かくて、彼がその時の瞬間を1つ1つ大事に確かめながら過ごしていたのだという事が伺えた。
 が話しているとき影山君は一瞬話を聞いていないのかと思わせるような無表情をしていて実を言うと最初は不安になったのだけれど、もちろん聞いていないなんてそんなことはなく、彼が合間に落とす静かな相槌はとても心地よくて、気付けば飲み会が始まってから2時間以上が経っていた。
 話している内に影山君との最寄り駅が同じことが分かったことも話が弾んだ一因だろう。が実家が大学から遠いため大学の最寄りから数駅のアパートに一人暮らしをしているのに対し、影山君は実家暮らしだ。1年以上住んでいてもではまだ知り尽くしていない駅周辺について、影山君はあのパン屋は美味しいだとかあのファミレスは中学の頃よく行っただとか教えてくれた。

 2次会でも座る席はなんとなく1次会で仲良くなった者同士になった。時折全体でくだらない、でも楽しい話をしたけれど、ほとんどと影山君は二人でゆっくりと会話を続けていた。どんどん酔いが回る他のメンバーと比べて、話に集中していたたちは飲むペースが少し遅かったのだと思う。アルコールを摂取した時特有の少し浮遊感を伴う感覚は頭の隅に漂っていたけれど、お互い比較的しっかりとした口調で会話をした。賑やかな空間の中で、たちの周りだけ違う空気が流れているみたいだった。
 それぞれの終電の時間が近づいて楽しかった飲み会がお開きになると、皆で駅へと向かった。当然と影山君の乗る電車は同じ路線の同じ方面だ。偶然達以外同じ方面の電車に乗るメンバーはいなくて、少し空席がある車内の中、眠そうなサラリーマン達に混ざり二人並んで座った。

 そして、今に至る。お互いそのまま家に帰るはずだったのになんだか今日という日の区切りをこれで終わらせることがどうしても惜しくて、電車から降りた後どちらからともなく目の前にあったベンチに座ってしまったのだ。
 飲み会の時のように話すことはしないで、ただそこに二人で黙って座っているだけ。それなのに、影山君がただ隣にいるその事実がなんだかとても嬉しくて心地が良かった。
 たち以外誰もいないホームは白い明かりだけが眩しくて、ただ時折風の音と遠くから聞こえる誰のとも分からない酔っ払いの叫び声が小さく耳まで届いた。

「今日、楽しかったね」

 見上げる夜空は乾燥した空気のおかげで星が良く見える。

「うん」

 先ほどまでのと同じように線路の奥を眺めていた影山君は、こちらを向いて短い相槌と共に白い息を吐き出した。いつも無表情の影山君の口角がかすかに上がるのがやけに嬉しくて、心から笑いたい気分だった。

 ああ、この人のこと好きだなあ。

 ごく自然に、当たり前のようにそんな思いが浮かんだ。  恋かどうかはまだ全然分からないけれど、今日たくさん話をして、影山茂夫という人が人間として好きになった。
 今日からたちは友達だ。来週の演習からもっと気軽に話すようになるだろうし、2人で一緒にどこか遊びに行くなんてこともするようになるかもしれない。恋人になる可能性があるかは不明だけれど、そうなってもきっとこの人となら楽しいだろうなぁ。
 影山君も、そう思っているだろうか。
 尋ねようとは思わなかったけれど、同じ気持ちだったらいいな、なんてぼんやり願った。

 静かな夜はうんと長い。駅を閉める前に見回りに来た駅員さんが声をかけるまで、たちはただ二人言葉もなく固いベンチに座り、すぐ隣にあるお互いの体温を冬の厚着越しに感じていた。