はじまりはじまり

 除湿に設定されたエアコンが室内の湿気と熱気を緩やかに消す週末の昼過ぎ、夕方近く。除霊のバイトも友達と会う予定も無い茂夫は家のリビングで一人、なんとなしにテレビを見ていた。父は朝早くに会社の同僚とゴルフに出かけ、律は先程覚醒ラボへと遊びに行った。母はそれより少し前に近所のスーパーへと買い物へ出かけたが、もうそろそろ帰ってくる頃だろうか。
 特に何を見ようと意識して付けたわけではないテレビの液晶には料理番組が映っている。油の中を泳ぐ鶏肉はこんがりと色づいていて美味しそうだ。料理研究家らしい女性がフライパンから上げた唐揚げをレタスの飾られた皿に盛りつける。匂いまで漂ってきそうなその映像を見ながら今日の夕飯はなんだろうかと思考を巡らせたところで玄関の扉が開く音が聞こえて、茂夫は顔を上げた。律はまだ出かけたばかりだし、母が帰ってきたのだろう。実際、聞こえたのは母の声だった。

「おかえり」

 慌ただしい足音と共にリビングのドアが開くのにそう声をかけて顔を上げた目に映った光景に、茂夫は一瞬固まった。

「ただいま。途中でちゃんに会ったのよ」

 母がいるのは想定内だ。先ほど玄関口から聞こえた「ただいま」という声は確かに母のものだったのだから。しかし、その後ろに若い女性がいるのは想定外だった。

「お邪魔します。モブ君、久しぶり」

 固まった自分へにこやかに笑いかけるその姿を真正面から見て、ようやく茂夫はそれが誰なのか理解した。数年前まで近所に住んでいただ。

 は茂夫より8学年上の、近所のお姉さんだった。過去形なのは彼女が大学に進学すると同時に一人暮らしを始めたからだ。彼女の家族は変わらず影山家の近くに住んでいる。毎年長期休みの際に実家へ帰ってきているようだったが会う機会は一度もなく、茂夫がその顔を見るのは実に3年半振りだった。

「こ、こんにちは」

 小学生の頃はよく遊んでもらった年上のお姉さんが急に現れたことに困惑しながらも、茂夫はなんとか挨拶を返した。茂夫にとって馴染みのあった彼女の高校の制服ではなく私服をまとい、化粧をしたの姿は「綺麗なお姉さん」という言葉が似合う。

「さっき家のすぐ近くで会ったの。高校の頃の友達と近くでお茶してたらしくて、久々に会えたのに嬉しくなって誘っちゃったのよ」

 半分呆然としながら母の説明に頷く。まだ長期休みには少し早い時期だが、何かあって帰ってきたのだろうか。

「ごめんなさい、もう少ししたらご飯時なのについてきちゃって」

 申し訳なさそうに頭を下げるの横顔は高校生の頃より線が細い。以前太っていたというわけではなく、少女らしく少しふっくらとした顔つきから、女性らしい、洗練されたという言葉が相応しい顎のラインへと変わっている。はっきりとその変化を明文化できないながらも、「自分が知っていた頃よりもなんだか大人になっている」という漠然とした思いを抱きながら茂夫はその顔を見つめた。

「いいのよ、こっちから誘ったんだから。紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ紅茶でお願いします。ありがとうございます」
「シゲも飲む? 紅茶の方が良いわよね?」
「あ、うん」
「何か手伝えますか?」
「あら、いいのに! ありがとうね」

 慌てたように台所へ来たを形だけ断ってから受け入れる茂夫の母の顔はもしかしなくても嬉しそうだ。娘が出来たようで嬉しいのだろうか。母以外の女性が台所に立つ光景を新鮮に感じながら、茂夫は黙ってそれを見つめた。

「もう4年生よね? 早いわねー」
「はい……自分でもあっという間でびっくりしてます」

 テーブルの上に置かれた紅茶と茶菓子は良い香りを放っている。普段律が座る場所にが座り、自分のすぐ隣にいるという事実にどうしようもなくそわそわとしながら、茂夫は紅茶が入ったカップに口を付けた。落ち着かない。なんだかから良い香りがする気がする。髪の毛がサラサラだ。お化粧してる。思考まで落ち着かず、そんなことをつらつらと考える茂夫の横では母とが楽しそうに話している。時々茂夫にも話が振られるが、会話のほとんどはについてだった。
 何故休みでもないのにこちらに来ているのかと思ったが、どうやらが大学4年生であることと関係があるようだ。茂夫にはよく分からないが、4年生になると受ける必要のある講義が非常に少なくなるらしい。まだ授業期間中と言え常に大学の近くにいる必要も無し、少し前に決まった就職先について親への報告を兼ねて羽を伸ばしに数日の間地元にいるようだった。
 肝心の就職先は実家からすぐの場所に決まったらしく、大学から卒業したらはまたこちらに住むらしい。それを聞いて、茂夫は嬉しいようなドキドキするよう不思議な気分になった。
 小さい頃は単に優しいお姉さんとして慕っていたが、こうして成長して帰ってきた姿を見るとなんだか自分でも形容することの出来ない気分に襲われる。憧れのような、それからさらに一歩進んだ何かのような。普段見る同級生の女子生徒より遥かに大人な彼女に、戸惑ってしまう。姿だけではなくてふとした仕草や表情が綺麗で、ちらちらと視線をやることを抑えられない。
 落ち着かない気分でまたカップに口をつけてからもう中が空になっていることに気付いて、ソーサーにカップを置く。カタンと小さく響いた音に茂夫の母は彼の方を見て、声をかけた。

「そういえばシゲ、悪いけどこれからスーパーで大根買ってきてもらってもいい? さっき買ってくるの忘れちゃったのよ」
「……うん」

 突然の頼みに少し驚きながらも茂夫は素直に頷く。紅茶も飲み終わったし、丁度いいといえば丁度いい。この落ち着かない空間から抜け出すことにほっとするような、名残惜しいような。どちらともつかない気分で立ち上がるのと同時にが思い出したように声を上げて、彼はびくりと肩を震わせた。

「そういえばもお母さんに買い物頼まれてたんだった」
「あら、そうなの」
「はい、すっかり忘れてました」

 慌てたようにカップを置く手の指先には淡い色が乗っている。茂夫がじっとそれを見つめる中は立ち上がって、母に頭を下げた。

もスーパーに行かなきゃです。ごめんなさい、バタバタしちゃって……紅茶とお菓子、とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」
「あら、いいのよ気にしないで! 久しぶりにちゃんに会えて良かったわ」
もお会いできて嬉しかったです。これからはまたよろしくお願いします」
「もちろんよ! シゲ、よかったわね。一緒に行ってらっしゃい」
「えっ」

 急展開な会話に混乱しつつも黙って聞いていたところに母から声をかけられて、茂夫は体を固まらせた。そうだ、自分とのこれから向かう先は同じなのだ。共に行くのが道理だろう。
 当たり前の事実に、一気に鼓動が速まった。

「もう夕方なのに暑いね。ずっと外にいたら溶けちゃいそう」
「そ、そうだね……」

 玄関で母に見送られ、茂夫とは夕暮れの道を歩いていた。エコバッグを握りしめる茂夫の手のひらが汗でふやけそうなのはきっと気温だけのせいではない。右手と右足を同時に前に出しそうな勢いでがちがちになっていることに、すぐ隣を歩くは気付いているだろうか。
 近所のスーパーまでは歩いて10分ほどだ。早く着きたい、とそればかりを思いながら茂夫は歩みを進めた。何故自分がここまで緊張しているのかも分からないまま。

 辿りついたスーパーは夕飯時が近いということもあって人が溢れていた。二人きりではないという状況に少し緊張が解けて、茂夫は隣に立つの顔を見上げる。

さんは何を買うの」
「うーんとね、お肉とか野菜とか色々。の方が時間かかるだろうから急ぐね!」
「えっ」
「モブ君が会計終わったら入口のところで待っててもらってもいい?せっかくだから一緒に帰ろう」

 優しい笑顔は仲が良かった頃と変わらない。頬が赤くなるのを自覚しながら頷いて、茂夫は野菜売り場へと向かった。

「お待たせ! じゃあ行こっか」

 自分の買い物を終え、言われた通りに店内の入り口近くで待っていた茂夫の前に現れたは大きなスーパー袋を二つ持っていた。

「……片方持つよ」

 見るからに重そうなそれに空いた方の手を差し出してそう言うとは驚いたように瞬きをする。

「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「でも、重そうだし……それにさんより僕の方が、力持ちだから」

 やんわりと断る言葉に食い下がると彼女は更に驚いたように目を見開いた。彼女は知らないが、茂夫は肉体改造部の一員なのだ。は大分年上だけれど男女差もあるし、きっと腕力では勝っているはず。そう思って開いた手のひらを出したままにすると、は笑って袋を渡した。

「じゃあ、お願いするね。ありがとう」

 帰る道に射す陽は行きよりも橙の色が濃い。まだまだ暑いけれど、夜の気配はすぐそこに近づいている。
 茂夫の緊張は最初が家に来た時よりはすこしマシになって、二人はぽつぽつと会話をしながら歩いていた。

「そっか、じゃあ今はその霊幻さんって人のとこでバイトしてるんだ」
「うん」
「部活は何かしてるの?」
「2年生になってから肉体改造部っていう部活に入ったよ」
「に、肉体改造部? 変わった部活があるんだね……!」
「筋トレしたり、走ったりするんだ」
「なるほど」

 どんな話でも真摯に聞いて相槌をくれる姿はよく知っているお姉さんだった頃と同じだ。
 は茂夫と律にいつでも優しくて、なんでも話せる大好きなお姉さんだった。茂夫の持つ超能力の事も知っていて、それでも普通の子供に対するように自然に接してくれた。3年経っても、それは変わらない。 まだまだドキドキは消えないが、この綺麗な女の人は自分が昔大好きだったと同じ人なのだと今更に実感して、茂夫は少し安心していた。

「だからかー、モブ君とっても男らしくなったなあって思ってたの」
「えっ!?」

 そう思っていたところに爆弾を落とされて、茂夫は思わず大きな声を上げた。

「お、男らしい……?」
「うん。背が伸びただけじゃなくて、なんだか昔より堂々としてる」

 荷物も持ってくれてるしね、と袋を指さされる。茂夫はが成長したと思っていたが、彼女も自分が成長したと思ってくれていたなんて。今日会った最初の内はろくに喋ることも出来なかったのに、そう思ってくれたことが嬉しく、そして同時になんだか恥ずかしい。

がもう社会人になるんだもん、モブ君も小学生の頃より男らしくなってるのは当たり前だよね」

 しみじみと言う彼女の言葉の節々から、対等とまではいかないまでも成長したことを認めてくれている事を感じてどうしようもなく心臓が暴れる。

「今までは離れてたけど、これからは近くでモブ君が成長するのを見れるね」
「!」
「またご近所さんとしてよろしくね、モブ君」

 綺麗な笑顔に体温が上がる理由を自覚するのは、きっとそう遠くない。
 家まで帰るこの道がもう少し続くことを祈りながら、茂夫は赤くなった顔を俯かせて頷いた。