執行猶予を与えよう

 椅子と床の擦れる大きな音が朝の教室に響いた。

「よ」

 予鈴の鳴る20分前、人影のまばらな教室はあまり騒がしくない。
 そんな中ドサリと音を立てて勢い良く隣の席に座ったのは鈴木将だった。彼はその席に割り当てられているのだからそこに座るのは当たり前のことなのだけれど、それでもが驚いたのは彼が学校に来ること自体が非常に稀だからであった。前回学校に来たのを見たのは何週間前だったろうか。

「お、おはよう……」

 挨拶を返す声が驚きで少しどもってしまったのも仕方のない事だろう。
 おずおずとした声に将は何か言いたげに口を開いたが、ほんの少し目を細めてを見つめると、振り切るようにふいと黒板の方を向いた。

「うお! ショウ来てんじゃん!」
「あ、ほんとだ! 鈴木久しぶりー!」

 予鈴の時間が近づき段々と増える生徒たちは教室の戸をくぐる度一様に席に座る将の姿に驚きの声を上げる。

「おー」

 手をひらひらと振って笑う彼の周りには女子も男子も関係なく多くの生徒が集まってきた。滅多に登校してこないけれど、気さくで明るい鈴木将は皆の人気者なのだ。

 今日という日も相まっての周りにも人が集まるから、二人の席の周りは本鈴が鳴るまでずっとにぎやかだった。

・・・

 どうにも落ち着かない。
 黒板の前に立つ教師の説明が耳を素通りするのを自覚して、は歯噛みした。
  授業を受ける間隣の視界が開けていないことに慣れていないから、逆立てた赤毛が視界の端に映る度に何とも言えずそわそわとした気分になってしまうのだ。曲げた肘が触れ合いそうになる度に隣に将がいることを否が応でも意識させられ、授業に集中できずにいた。
 その上、これだ。そう心の中で呟いては手に持ったシャーペンを強く握りしめる。
 先ほどから将は何故か時折の方にちらりと一瞥をよこしてまた前に視線を戻すということを繰り返していた。
 顔の向きを変えずに目だけで行われるそれが、どれほど彼女の集中を削ぐか。その澄んだ色をした鋭い瞳が意味ありげにこちらを見やるたびに、横顔が灼けるような感覚を抱く。熱い瞳の温度を彼は自覚しているのかと、はその着崩された制服の胸元を掴んで聞きたかった。

 給食後、昼休みの後の掃除時間。と将は二人、体育館へと続く渡り廊下を掃いていた。
 会話は無く、スピーカーから流れる掃除時間のBGMの他には箒がアスファルトでできた渡り廊下を撫でる音だけが辺りに響く。
 一時間目の後もひっきりなしにと言うほどでもないけれど勘違いではないとはっきり分かるぐらいの頻度で将から向けられる視線に、はすっかり困惑していた。将をよく知っていると言えるほど親しいわけではないが彼ははっきりと物を言う少年のはずで、そんな彼が理由を伝えるわけでもなく自分をただただ何か言いたげに見つめることにどうしても納得がいかなかったのだ。
 迷った挙句、はその思いを口にすることに決めた。

「ねえ、鈴木君」
「……ん?」

 一拍置いて返事が返される。歯切れの悪いそれは、そっけないとまではいかないがどこか深く踏み込むことを躊躇わせるような響きをしていて、言葉を続けようか一瞬を迷わせた。
 だが、このままではすっきりしないのだ。彼が口をつぐむのは自分に対してだけなのだから、もしかしたら理由だって自分にあるのかもしれない。それなら尚更原因を探らなくては。そう思っては言葉を続けた。

、何かしたかな」

 の言葉に、将は弾かれたように顔を上げた。先程まで頑なに一ヵ所に集められた地面のゴミへ向けられていた目は真っ直ぐ彼女に向けられていて、驚愕に彩られている。
 丸く見開かれた瞳を見つめ返すと、将は肩を揺らし気まずそうにまた視線を逸らした。一体何が彼の口をごもらせているのだろう。

「鈴木君、今日ずっと何か言いたそうだったから」
「あー……」

 付け加えられる説明に将は顔を俯かせ、その顔に片手を当てて呻いた。

「悪ィ……だよな、気付くよなそりゃ」
「あ、謝らなくても大丈夫だけど、なんだか鈴木君らしくないって思ったから」

 本当は中々居心地の悪いをさせられていたけれどいざ素直に謝られるとなんだか気おくれしてしまって、は慌ててそう返す。

「らしくない……そうだよな、俺らしくもねー」

 自分に言い聞かせるように呟いて、将は俯かせていた顔をまた勢いよく上げた。真っ直ぐにを見つめる瞳に迷いはもう無い。

「ちょっと来てくれ」
「え?」
「すぐ済むから。まだ掃除時間終わるまで10分くらいあんだろ」
「で、でも」

 少しだけ大きな手がの左手を掴む。強く引っ張る力に思わず彼女はたたらを踏み、逆の手に持っていた箒を落とした。慌てたその様子に将はどこかおかしそうに笑って、自分の持っていた箒も少し遠くの地面へ放り投げた。

 温かい手に引かれてが連れてこられたのは、学食の横にある自販機の前だった。
 将は白く背の高い機械の前に立つと彼女の手を離し、制服のポケットから財布を取り出して小銭を数枚投入する。彼の後ろに立つは何が何だか訳の分からないままその挙動をじっと見つめる他ない。
 よりわずかに大きな手は赤く点滅するボタンの内の一つを迷いなく押す。取り出し口にかがんで落ちてきたボトルを取り出すと、将はの方に向き直った。

「誕生日、おめでとう」

 500mlペットボトルを差し出しながら大きな声でそう言われ、はぽかんとした。
 今日一日、朝から多くの人に言われた言葉だった。そして、まだ将からは言われていなかった言葉でもあった。
 今日は、の誕生日だった。

「あ、ありがとう……」

 あっけにとられながらもようやっとお礼と共にペットボトルを受け取って、は脳裏に浮かんだ考えをゆっくりと反芻した。
 もしかして将はその一言を言えずにずっと自分を見ていたのだろうか。まさか、快活ではっきりと物を言う鈴木将が。にわかには信じがたい事だ。
 表情からの言わんとすることを理解したのか、彼は少し気まずそうに頬をかいた。

「伝えたかったのはそれだけじゃねーから中々勇気が出なかった」

 そう言うと一度大きく息を吸って、将は言葉をつづけた。

「……俺、今日の誕生日だから学校に来たんだよ。お前におめでとうって言いたかったから、それだけの為に来た」

 真っ直ぐに見つめる瞳はどこまでも真剣だ。射抜くような視線を受けて、は目を見開いた。

の誕生日だから……?」
「ああ。意味分かるか?」

 ただのクラスメイトであるはずのに直接祝いの気持ちを伝えたかったから、ろくに来ない学校にわざわざ来た。
 その事実と言葉をゆっくり考えて、はしみじみと思ったことを言った。

「ありがとう……すごく嬉しい。鈴木君ってすごくクラスメイト思いなんだね」
「……はあ~?」

 の感慨のこもった言葉を聞いて将は思い切り間の抜けた声を上げた。

「え、そんな変なこと言った?その為にわざわざ来てくれるってすごく優しいと思って」
「あのな……」

 顔に手をやる姿はに見つめていた理由を聞かれた時と同じだが、表情はその時とはまるで違う。呆れの感情を露にして将は彼女を睨んだ。

「お前な、冷静に考えてみろよ。今月誕生日の奴他にもクラスにいなかったか?」
「え? そういえば確かに……」
「今日以外に俺今月学校来たか?そいつ等の誕生日に?ってか何日かも知らねーけど」

 が首を横に振って答えると将は大きく頷いて彼女の方へと足を踏み出した。

「だろ? でも俺は、他の誰でもない、が誕生日の今日には、わざわざ学校に来たんだよ。お前だから、来た」

 言葉を区切るごとに将は一歩ずつに詰め寄る。ぶつからないように彼女が後ずさるのと同じ分距離を縮めるから、二人の間はどんどん狭くなる。

「その意味が分かるかって、そう聞いてんだよ」

 とうとう壁を背中にして下がることのできなくなったの瞳を瞬きの音が聞こえそうな近さで将が覗き込む。
 低く囁きかける声は聞いたことのない響きを纏っていて、は思わずカッと顔を赤くした。ただの隣の席の男の子だと思っていたのに、何故こんなに心臓がうるさく音を立てるのだろう。

「す、鈴木君、近い」
「そうか?」

 とぼけたように首を傾げて笑う姿はクラスで見る明るくて気さくな少年らしい彼とはあまりにも違う。
 何か、何か言わなければ。上手く回らない頭でなんとかそう思って口を開くのと同時に将は彼女の顔の横の壁に静かに手をつく。更に近づく鋭い瞳に、思わずはぎゅっと目を瞑った。

「……ま、いいや」

 ふ、と顔に息がかかった後に耳元で呟きが聞こえた。強く閉じていた目を開けると、将はぱっと壁から手を離してから少し距離を開け、両手を軽く上げた。

「ゆっくり準備して段々追い詰めてくのも嫌いじゃねーからな。今日はここまでにしといてやる」

降参みたいなポーズをしているくせに、浮かべているのは意地悪い笑みだ。自分は今、何をされそうになっていたのだろうか。

「は…」
「おっと」

 羞恥と緊張で荒くなっている呼吸を自覚して思わず壁を背に座り込みそうになったの腕を将が掴み、揺らぐことも無く強い力で立ち上がらせる。よろけながらもなんとかしっかりと両足で地面を踏みしめると、将はニカッと笑ってからの腕を離した。
 そのまぶしい笑顔がいつも見るものと同じで少しほっとする。非日常から、日常へと緩やかに戻っていくようで。

「次、俺が学校来るまでにちゃんと答えられるようにしとけよ。そしたらプレゼントやるから」

 そう思っていたら繰り出されたジャブには思わずまたびくりと震えた。

「……え、でもこれ」

なんとか先ほど渡されたペットボトルを示してそう言うと将はいやいや、と手を振った。

「それはお前のことずっと見てて困らせた詫びだよ。そんなんでプレゼントなんてかっこつかないだろ」
「でも」
「気にすんなって! 俺が渡したいんだから」

が迷うように将の方へ向けていたペットボトルを彼がぐい、と彼女の方に押すのと同時に、掃除時間終了のチャイムが鳴り響いた。

「お、掃除終わりだ! 教室帰ろうぜ。あ、箒とかゴミとか回収しないとだな」

 体育館の方へと向かって将は歩き出す。その背中を見つめながら、はまだ体の中に残る熱を冷ますようにずっと手に持っていたペットボトル飲料を頬に当てた。顔からペットボトルを離した後にラベルを見て、は今更なことに気付いた。
 これ、の好きな飲み物だ。

「おーい、早く来いよ。遅れるぞ」
「あ、うん!」

 見つめる視線、おめでとうの言葉、好きな飲み物を知っている理由。全てのピースがはまって形を成すのはそう遠くない。