果てと楽園は違う場所

 制服のスカートから伸びる長い脚が折り曲がってフローリングに膝をつく。冬服が詰まったケースや小物なんかが並べて置かれた僕のベッド下を覗き込んで、さんは間延びした声を上げた。

「あれー? どこいったんだろ」
「どうしたの」

 キッチンでコーヒーを用意していた僕が声をかけるとこちらを振り返って、彼女は眉を寄せた。

「ピアス。さっきまでつけてたと思ったのに、片方無くなってるの」

 少し離れた場所からだと鮮明には見えないけれど、細い指が指し示す右耳からは確かに輝きが消えている。未だ彩られた左耳とちぐはぐでなんだかおかしい。

「本当だ。シャワー浴びたときに落としたんじゃない?」
「ううん、お風呂場も探したけど無くて」

 困ったな、とさんが細い首を傾げるとまだ濡れている髪の毛先から雫が伝って鎖骨へと流れる。首にかけたタオルで鬱陶しそうに水滴を拭くとボタンを留めきっていないシャツの襟が乱れた。こちらからでも白く透き通って見える首筋を横目で追ってから視線を逸らす。目の前の作業に集中しなくちゃだ。
 湯気を噴き出して用意ができたことを主張するやかんの火を切る。シンクに置いてあった自分のマグカップを拭いてから、少し前に買った来客用のマグカップを食器棚から出して隣同士に並べた。
 少し冷たいそれらに湯を注いで温める。数十秒待ってからぬるくなった湯を捨てて、用意してあった黒い粉が敷かれたフィルターをカップの上に置く。のの字を描くように湯を注ぐと湯気が立ち上った。いい匂いだ。一人分を注ぎ終わってからドリッパーをもう一つのカップの上に動かす。出来るだけ素早く動かしたけれどやっぱり下に数滴コーヒーが落ちる。これからも二人分淹れるんだったらサーバーも買うべきかな、なんて思いながら小さな黒い染みを台ふきんで拭いた。
 出来上がったコーヒーを注いだマグカップを二つ持ってリビングに行くと悩ましげな細面が僕の方を向いた。

「はい、砂糖2つね」
「ありがと」

 受け取ったコーヒーの香ばしい中にほんの少し甘さを混ぜた匂いをいっぱいに吸い込んで、さんはようやく顔を緩ませる。カップに口を付けて更に笑顔がこぼれるのを見つめて、僕も自分のコーヒーに口を付けた。うん、美味しい。
 熱々の液体は少しずつしか減らすことが出来ない。凪いだ表面を時たま尖らせた口で揺らして、両手で持ったカップからちびちびとコーヒーをすするさんの横顔が、当たり前のように自分より大人びているとふと思った。たった数年の差でこんなことを思うのは僕だけなんだろうか。
 一足先に空にしたカップをシンクに置いて、戻ってきた彼女はまた僕の隣に腰掛ける。何か考えているときの顔で何もついていない右耳の穴を揉むように何度か触ってから、左耳から残っていたピアスを外した。

「一つだけ付けててもなんだか変だよね」
「僕もそう思った」

 正直にそう言うと軽やかな笑い声が返ってくる。

「もうつけられないな」
「え」

 手に乗る輝きを名残惜しそうに見つめてから、スカートのポケットにピアスを押し込むのに思わず戸惑いの声をあげてしまった。最近はずっとそのピアスを付けていた気がすることを思い出して余計心にもやがかかる。

「大切だし気に入ってたから残念なんだけどね」

 もっと、もっとちゃんと探せばもう片方は見つかるんじゃないのかな。苦笑する彼女にそんな簡単な言葉をかけられなくて口ごもる。

「あ、コーヒー美味しかったよ。ありがとう」

 自分の低い声とは違って甘い、女の子らしいその声に頷いて、なんとか僕はさんに微笑んだ。何か胸に詰まる感覚を、形にできないまま。
 そういえば今回失くしたピアスの前は、また違うピアスをよく付けていたな。あれは今どこにあるんだろう。


 さんの通う高校は昨日テスト期間が終わったらしい。今日の放課後家に遊びに来たいとの連絡を受けて、僕は授業後早々に家へと帰り掃除をしていた。そこまでずぼらな性格じゃないから元々そんなに汚れてないが、やっぱり彼女が遊びに来る前は念入りに綺麗にしておきたい。半分くらい気持ちの問題だ。
 この際徹底的にやってやるかとベッドの下を覗き込む。冬服の入ったケースを引っ張り出してみると意外に埃が溜まっていた。掃除機をかけようとしたところで暗い中に何かが光るのが見えて、目を凝らす。
 さんの探していたピアスが落ちていた。

「ああ、こんなところに……」

 拾い上げ、ふっと息をかけてベッド下から引っ付けていた埃を落とす。夕日に透かして輝きを反射させたところで、ふと気付いた。

 ああ、このピアスって僕みたいだ。

 歯車が噛み合っていくように、言葉にはできなかったけれど確かに心にあった焦躁や不安が形を成していくのが分かった。大切だって、大好きだって言って。その言葉に嘘はないけれど、真実でもない。大切で大好きだけど、その大切は永遠ではないんだ。
 僕は別に、さんが浮気をするだとか僕の事を本当は好きではないだとか、そういう事を思ってるんじゃない。ただ、彼女と僕の想いはどうしても異なるんだ。嘘だとか本当だとか、そういう話じゃない。関係に求めるものが最初から違うんだ。だってさんは、僕とずっと一緒にいてくれないだろうから。
 僕は彼女にとって誓いの場で光る薬指の永遠の輝きになりたいのに、彼女にとって僕は気まぐれに変わり耳を飾る一時の彩りでしかないのだ。お気に入りだと言ってよく付けていた一つ前のピアスや、今手に持つ片方のピアスはそのまま僕の将来の姿に変わりない。

 震える指からせっかく拾い上げたピアスがこぼれる。床に落ちていた埃と混ざり合って、またその輝きがくすんだ。

「ふふ」

 何も楽しくなんかないのに口端から笑いが零れる。二度拾い上げたピアスを軽く振ると、薄い埃がまた床に落ちた。重さのない乾いた灰色のそれは、僕の頬から顎を伝って落ちるしずくに上から潰されて黒い塊へと変わっていく。泣きたくなんてないのに塩辛い水は後から後からフローリングへと落ちた。
 どうしようもなく胸が痛かった。涙を流したって何も変わらないんだから、泣くことなんて大嫌いだ。無意味なんだ。このピアスみたいに。僕みたいに。
 いくら目元を拭っても涙は溢れる。こらえていた嗚咽は段々と大きくなって、ただ僕は床に突っ伏して泣きじゃくった。このまま脱水症状で死ねたらいいのに、なんて思いながら。


 チャイムの鳴る音がして、リビングでテレビを見ていた僕は立ち上がった。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」

 玄関に立った僕を見るとさんは笑顔を見せてくれた。
 10年分ぐらい涙を流した後濡れたタオルですぐに目元を冷やしたおかげで、目元に腫れや赤みは全く残っていない。泣いたとき特有の倦怠感だけが僕の体に証拠として残っていた。

「何飲む?」
「いつもありがとう。コーヒーもらおうかな」
「分かった。いつも通りに砂糖2個だよね?」

 一応確認すると嬉しそうな顔で頷きが返ってくる。手を洗いに行こうと洗面所の方を向く際に彼女の耳元で揺れた輝きは新しいピアスのもので、心臓が嫌な音を立てた。

 やかんにコーヒーの粉やフィルター、ドリッパーと2つのマグカップ。洗面所から戻ってきたさんは、キッチンで色々と用意する僕を手伝おうと横に立ってくれた。そんなところを愛しく思うのは確かなのに、どうしてもその耳で揺れる光に意識が行ってしまう。ねえ、君が失くしたと思っているピアスのもう片方を見つけたって僕が教えたらなんて言うんだい。
 湯が沸くのを待つ間、さんは台所の窓の向こうを見ていた。夕日に染められてセピアに近い色は喪失を強く思わせて、遠くを見つめる横顔に心臓が軋む。

「ねえ、好きだよ」

 焦燥をに襲われるまま、抑えきれない衝動を音にした。驚いたようにこちらを向く瞳にただ同じ言葉を繰り返す。

「すごく好きなんだ」

 そう遠くない終わりの予感を振り払うようにそう口にすることしか、僕にはできない。

「ありがとう」

 橙色に照らされて微笑むその顔を見てどうしようもなく泣きたくなった。どうせ本当の意味で心から僕のものにはなってくれないくせに。

「……テル君? どうしたの?」

 心配したように僕の顔を覗き込む彼女が心底憎らしいのに。どうにかして嫌いになる術を知りたいのに。本当に憎むことなんて未来永劫できないことだけは良く知っていた。