愁思のけものよ、こちらにおいで

 明日、クラスでは席替えが行われる。楽しみにしている生徒が多い中、はなんとも言えない気持ちでいた。ようやく今の席に慣れたのに、また新しい誰かと微妙な関係を築かなければいけないと思うと気が重いのだ。あまり浮かない気分で目をやった窓の外に見える空は自分の心とは裏腹に眩しいくらいの快晴で、なんだか恨めしくなった。

さん、上まで届く? オレ代わりにやるよ」

 ぼんやりと景色を見ている中唐突にかけられた声にびくりと肩を跳ね上げる。振り向くと赤茶色の髪をしたクラスメイトがすぐ後ろに立っていた。

「あっ、えっと……ありがとう」

 どもりながら手に持っていた黒板消しを渡すと、新開は隣に立ってが届かなかった黒板上部の板書を消していく。代わりにはそろりと後ろに下がって、床掃除を始めようと箒が入っている用具ロッカーがある教室後方へと向かった。予想以上に近かった距離に心臓が存在を主張している。席替えに加えてもう一つ彼女を複雑な気持ちにさせているのが、今現在陥っているこの状況だった。
 今は放課後だ。校内にはほとんど人気がなく、開け放った窓からグラウンドで練習する運動部の元気な声が入ってくる。普段ならば帰路についている時間帯だが、は今日日直を担当していたため教室に残っていた。もう一人の日直はたった今黒板掃除を代わってくれた新開だ。
 と新開は隣の席ではない。特に席が近いわけでもない。だが、以前新開が部活の大会で本来の日直を行う日に欠席し、その後も体調不良で偶然自身の日直担当日に欠席していた。日直をやっていない者が二人──ならば他の生徒が皆日直をしてから残った二人で共に日直をすればいいだろう、という担任の判断で席替えの前日に日直当番を行うことになったのだ。しかし、この憂鬱は日直の仕事を行うことに対してではない。
 は、新開のことが気になっていた。けれど、同時に彼のことが少し苦手だった。正確に言えば、新開のような人種が苦手だった。整った容姿を持ち運動ができて、皆に好かれる人気者。おどおどして特に秀でたものもない自分とは正反対──そんな人間。

 以前、はいわゆる「クラスの人気者」にいじめられていた。チビだとか容姿を揶揄する言葉を絶え間なくかけられる中学時代は思い出すのも辛い程に惨めで、今もの心に暗い陰を落としていた。元々はこんなおどおどしてはいなかったのに。何かすれば「お前みたいな奴が」と言われるのではないかという気持ちから消極的でネガティブになってしまう。そうしてまた、暗い奴だと思われる。絵に描いたような悪循環だ。分かっていても、なかなか自分を変えることは難しい。いつしか華やかな生徒を前にしただけで、内心怯えてしまうようになってしまっていた。
 新開自体に何か悪意のこもった行いをされたことはない。お門違いの苦手意識だと分かってはいる。それでも、心の中で馬鹿にされているのではないかというようなことばかり考えてしまうのだ。そんな密かに憧れと怯えを抱いている対象と二人きりになるのは、少し浮足立たせるような淡い色の期待と、それ以上に暗い色の不安を複雑にかき混ぜたようななんとも言えない感情をに抱かせていた。

さん、黒板掃除終わったけどそっち手伝う?」
「あ、もうこっちも終わるから大丈夫だよ。ありがとう」

 お礼に対してにこりと笑う新開はどこまでも爽やかだ。本当にかっこいいと思う。それは確かだ。ただ、こうして余りにも近い上に二人きりという状況ではなく自分の存在を気付かれないくらい遠く離れたところでこの笑顔を見れた方が余程嬉しいのになぁ、なんてことをこっそり思ってしまうのも紛れもない事実で、真っ白になった黒板消しがクリーナーで掃除される音に紛れてため息をついた。
 クリーナーで粗方のチョークの粉を落とした新開は最後の仕上げとばかりに窓の外に手を伸ばして勢いよく二つの黒板消しを打ち合わせ、残った粉を外に落とす。が箒とちりとりを片付ける間に彼は教卓に置いてあった日誌を取り上げ、教室真ん中あたりの席に座った。わざわざ前方を向いていた椅子を逆に向け、黒板に背を向ける形で座ってくれたのでもその向かいに当たる椅子を引く。そのままが座ると、新開はシャーペンを握った。

「今日の1時間目、英語だったっけ」
「うん」

 首を傾げてこちらに聞くのに頷くと「ありがと」とお礼が返ってくる。相変わらず優しい口調と態度にときめきのような何かが胸の奥を火花のように小さく刺激したが、同時に自分のような奴になど何も思っていないだろうという後ろ向きな気持ちがそれに覆いかぶさるように蠢く。相反する心の動きに今日何度目かのため息を漏らしそうになると、新開がまた口を開いた。

「今日、憂鬱だったよな。ごめん」
「……え?」

 唐突な言葉に思わずどう返すべきか思考が宙に浮く。そんなを見て、新開は苦笑した。

さん、オレの事苦手だろ」

 思わずひゅっと息を呑む。最早新開は手を動かしておらず、まっすぐにを見ていた。

「え、と」
「無理しなくていいって。見てれば分かるよ」

 なんとか言葉を返そうとするとゆるく首を振られる。口調は柔らかくとも確信のこもった口ぶりに血の気が引いた。

「前に話しかけた時、やけにビクビクしてるなって思ってさ。人見知りなのかと思って時々目で追ってたんだけど、誰にでもビクビクしてるって訳でもないから『ああオレのことが苦手なんだ』って分かったんだ」

 気づかれていた。パニック寸前の頭でそればかりがぐるぐるとまわる。怯えと焦燥の混じった感情は顔にもありありと出ていたのだろう。新開は慌てたように言った。

「ごめん、別に怒ってるわけじゃないからそんな怖がらないで」

 この場から逃げ出したいような気持だったが、そう言われてなんとか衝動を抑える。さんざ迷った挙句首を振ると、新開は安心したように息をついた。
 この人なら笑わないで聞いてくれるかもしれない。半ば願望に近い思いでは口を開いた。

「……、チビで冴えないから新開君みたいなかっこいい人と一緒にいると気後れしちゃって」

 実際は色々な経緯と感情が入り混じっての結果だったが、短く言えばそんなことになる。「ごめんなさい」と消え入るような声で締めくくった言葉に、新開は目を丸くした後何故か嬉しそうな顔をした。

「え、オレのことかっこいいって思ってくれてるのかい? ありがとう」

 全く予想だにしていなかった返事にぽかんとする。新開のような男子ならかっこいいなどという言葉、言われ慣れているどころの話ではないだろうに。聞き間違いかと思って目の前に座る彼を見たが、その顔はやはり上機嫌という言葉がぴったりの表情をしていた。

「けど、冴えないことなんてないさ。派手ってわけじゃないけど、さんはかわいいよ。ウサギみたいで」
「……ウサギ?」

 先程以上に面食らって聞き返すと、新開は頷いた。

「ウサギみたいにちっちゃくて、少しビクビクしてて。今はオレに怯えてても、その内懐いてくれないかなって思う」

 飄々としたトーンで紡がれる言葉に何が何だかわからなくて目を白黒させてしまう。ウサギみたいって何、懐いてほしいって、何。先程とは違う意味でキャパシティオーバー寸前のに気づいているのかいないのか──否、もちろん気づいているのだろう。それでもなお、新開は笑みを浮かべたまま言葉を続けた。

「さっき、さんのこと時々目で追ってたって言っただろ。あれ、半分本当で半分嘘なんだ。目で追ってたのは本当。でも、時々じゃなくてしょっちゅう追ってた」
「な、なんで」
「最初はなんでオレが怖いんだろうって不思議に思ってのはずだったのに、見てるうちにそんなこと関係なくさんのことが気になってたから」

 なんでもないように、特に気負うこともなく。普段とさほど変わらないトーンで返ってきた答えに、は驚愕で目を見開いた。嘘を探そうと真っ直ぐ自分を見つめる新開の瞳を見つめ返せば言葉の冷静さとは裏腹に真摯な心の熱ばかりが伝わってきて、こちらの頬が熱くなる。それでも簡単に信じることはできなくて、目を逸らしてなんとか一言絞りだした。

「嘘……!」
「あれ、信じてくれないのか」

 新開は残念そうに言って腕を組み、少しの間を置いて「そうだ」と何か閃いたように人差し指を立てた。一体次はどう出るつもりなんだという気持ちでそろりと視線を元に戻すと、目の前の男はまたにっこりと笑っていた。

「うちの席替え、男女分かれてのくじ引き式だろ? 明日、くじ引いたら番号教えてよ。オレ、さんと同じ番号引いた奴とくじ交換してもらうから」
「え、え」
「1ヵ月で信じてもらう。それで、次一緒に日直やる時に、日誌の報告のとこに『新開君と仲良くなりました』って書いてもらうのがオレの目標」

 何それ、勝手なこと言わないでよ。そう言わなければいけないはずなのに、どうしてか言えなかった。
 強引な口ぶりには憤りか不満を感じてもいいはずなのに、何故か胸は甘くときめくばかりでそんな自分に困惑する。自信たっぷりににっこりと笑む顔は今までで一番魅力的に見えて、是とも否とも言えないままはただ顔が熱くなるのだけを感じていた。