永遠に続けこの廊下

 ダァン、と強い音が高い天井まで響いた。

 今日の体育はバレーボールだ。広い体育館を女子と男子で半分に分けて、チームのローテーションを組んで試合を繰り返している。の入っているチームはさっき先生の指示で本日2回目の試合に突入した。
 慣れないレシーブを繰り返した腕はじんじんと痛むけど、同じチームになった女子バレー部に入っている優しい子が分かりやすくルールを説明したり、皆のプレーのミスをフォローしてくれるおかげで試合は中々様になっていて、結構楽しい。額に滲む汗をぬぐって相手側のボールを待った。
 高い弧を描いてこちらのコートに落ちてきたボールをなんとか上に上げると同じチームの子たちが口々にナイスレシーブ!と声をかけてくれて、ちょっと嬉しくなってしまう。上がったボールの方に向かって女バレの子が走り込んだ。といっても授業だし、やっぱり大分手加減しているんだろう。彼女が放ったスパイクは、前に放課後見かけた女バレの練習風景でのそれより大分優しめに見えた。
 頑張って飛んだ相手の子の精一杯挙げられた両腕は残念ながら(まあチーム的には嬉しいんだけど!)ブロックに失敗して、ボールは相手側のコートに落ちた。嬉しそうな声がこちらから、残念そうな声があちらから上がって合唱のようになるのがおかしい。思わずチーム関係なく皆で笑いあって、女バレの子が相手からボールを受け取った。今度はこっちのサーブだ。

「うっわ!田所お前力強すぎんだろー!」
「ガハハハ!」

 そんな時、男子側のコートから大きな声が聞こえて思わずそちらを向いてしまった。
 聞こえた名前に心臓がどくんと飛び跳ねる。痛そうな顔をしてぷらぷらと手を振る男子は口を尖らせて大柄な男子を見ている。その見つめる先の大柄な方、こちらまでよく聞こえる声で楽しそうに笑っているのは同じクラスで隣の席の田所君だ。
 田所君のスパイクかサーブが当たったのかな。そう思いながらじっと二人を見つめた。いいなあの子、田所君と話せて。
 はもうずっと、田所君に恋をしている。こうやって、楽しそうに話をしている男子にさえ嫉妬しちゃうくらいに。
 正直に言うと、去年初めて同じクラスになった時は怖い人じゃないかと思った。田所君は少なからず人相が悪いし体が大きいからちょっと身構えてしまったのだ。でも、そんな印象はある時に隣の席になって話すようになる内にすっかり消え去った。部活や実家のパン屋さんについて面白おかしく話してくれたり、の話を楽しそうに聞いてくれたり、すごく優しい人なんだってことがすぐに分かった。授業の合間や昼休みにぽつりぽつりと二人で話す時間がどうしようもなく楽しくて、愛おしくて。気付いたら好きになっていた。今年も同じクラスになれたと知った時は、本当に嬉しくて。

「よーし、いくよー!」

 同じチームの子が元気にそう言うのが聞こえて、慌てて女子側のコートに意識を戻した。
 高くボールが上がってサーブが放たれる。ネットすれすれに通過したそれを相手チームの子がレシーブして、山なりの球がこちらにまた返ってきた。というか、真っすぐの方に。ちょっと前まで違う方に注意を向けていたせいで咄嗟に反応できなくて、うまくコントロールしきれなかったボールはそのままコートの外に転がっていった。

「ごめん!」

 貴重な1点が!ぼーっとしてたせいだ。同じチームの子たちに軽く手を上げて謝る。小走りでコートを出て男子の方まで転がっていったボールを追った。男子コートの後ろに行くと、ついつい田所君の方を見てしまいそうになるのをなんとか抑えた。さっきそのせいで点を失ってしまったんだからこらえなきゃ。首を振ってラインの少し後ろにあったボールを拾い上げ、こちらを見ていた女子側の方に手を振る。
 戻ろうと足を踏み出そうとした瞬間、危ない、と誰かが叫ぶのが聞こえた。
 声の聞こえた方を振り返ると自分の方へと迫ってくるボールが目に飛び込む。咄嗟に避けて後ずさると、顔すれすれで通り過ぎたそれは体育館の壁に叩きつけられて大きな音を立てた。

「大丈夫か!?」

 足をもつれさせて後ろへ尻もちをついたに、危ないと叫んでくれた男子が駆け寄った。

「だ、大丈夫……当たってないし……」

 びっくりした。バクバクと鳴り響く心臓のあたりを体操着の上から押さえて、そう心の中で呟く。でも当たらなくて良かった。すごい勢いだったし、当たったらきっと相当痛かったはずだ。
 放心状態のの所へ先生と友達たちが駆け寄ってくる。口々に大丈夫か尋ねる皆になんとか頷き返すと、安心したように溜息をつかれた。

「大丈夫か!?」
「田所君?」

 取り囲まれているの元に蒼白な顔をした田所君が駆け寄ってきた。

「悪ィ、つい力入れすぎてコントロールが狂っちまった」

 そう言って勢い良く頭を下げる姿に、やっとさっきのボールは田所君が打ったものだったらしいことに気付いた。なんだ、こうなるなら我慢しないで田所君の方を見てればボールが来るのにも気付けたのに!自分のタイミングの悪さに思わず笑ってしまった。

「全然大丈夫だよ! びっくりしたけど、そもそも当たらなかったし」

 笑顔でそう言うに田所君は下げていた頭をそろそろと上げる。

「それはそうだけどよ……転ばせちまったし怖かっただろ?」
「大丈夫だって、ほら」

 酷く心配そうな顔でこちらを見てくるから安心させようと立ち上がろうとした瞬間、足首に激痛が走って思わずまた座り込んだ。

!?」
!?」

 皆が心配そうに叫ぶ。あまりの痛みに脂汗がじんわりと額に浮いた。
 ボールには当たらなかったけれどきっと足をもつれさせた時に足首をひねったんだ。これは立てないかもしれない。

「足首ひねったんだな?」

 厳しい顔での先生の問いかけに渋々頷くと田所君はさっきよりもっと顔を白くした。ああ、こんな顔させたくなかったから無事だって言いたかったのに。

「悪ィ……」
「そんな顔しないで! そもそもがボールを見てなかったのが悪かったんだし」
「そう言ってもこのままにはできないしな。保健室に行かないとだな、

 先生の言葉に頷く。でも、立ち上がれないしどうすればいいだろうか。

「俺が責任もって連れてきます」
「え!」

 の頷きとほぼ同時の田所君の言葉に驚いて声を上げた。

「そうだな、それがいいだろう。戻ってきたら説教だぞ~」
「はい」
「え、え」

 なんだか申し訳ない。本当にそもそもが自分の試合のボールを見ていないからコートアウトしてしまって、そのせいで男子のコートの方に行ったからこんなことになったのに。それでもやっぱり田所君が自分が連れて行くと言ってくれたのが嬉しくて内心胸が弾んだ。短い間だけど二人きりだ。
 でもこの足でどうやって行けばいいだろう…もしかして、肩を貸してもらえたりするんだろうか。さらなる幸福の予感に人知れずそわそわするの前に田所君がかがみこんだ。

「田所君? どうし、わ!」

 突然の浮遊感に声をあげる。周りの友人達が何故かきゃー!と黄色い声を上げるのに一拍遅れて今の自分の状況に気付き、思わずもっと大きな声で悲鳴を上げた。

「たっ、田所君!? 何してるの!?」

 田所君は、をお姫様だっこしていた。

「何って、お前歩けないんだからこうするしかねえだろ」

 裏返った声に返す彼の顔の近さに思わず体をのけぞらせると「何暴れてんだ」と抱きかかえる腕に力を込められた。
 いや、でもこれはちょっと!
 心の中で叫び声を上げる。体操服越しに背中に感じるがっしりとした感触や膝裏に回る体温に、先ほどまでの痛みからの脂汗とは全く違う汗が手にじわりと滲んだ。自分では見えないけれど絶対顔も真っ赤になってるはずだ。

「じゃあ行ってきます」
「うん、気をつけてな」
「さすが田所男らしいぜ!」
、よかったね~!」

 先生の返事に被せる様にざわざわと冷やかしや好奇、その他色々入り混じった声がかかる。うるさいよ!よかったねじゃないよ! 腕の中で縮こまるとは対照的にオウ、といつも通り元気な声で返事をして田所君は体育館を出た。

 流石部活で鍛えているだけあって全く疲れる様子を見せない太い腕の中、達は渡り廊下を通って校舎の1階へと踏み入った。こんなところを誰かに見られたらどうしようかと思ったけれど、よく考えてみれば授業中の廊下は人気がなかった。保健室があるのも1階だからそこまで遠い道のりではないし、きっと誰かに見られることは無いだろう。思わずほっと小さく息をついた。

「……あの、本当にごめんね」

 しんとした廊下を進む中、田所君は口を開かない。静まり返った空気が気まずくて恐る恐る声をかけると、彼は訝し気な顔をして首を傾げた。

「なんでが謝るんだよ。謝んのは俺の方だろうが」
「いやでもこんな、運んでもらって……、重いし」

 小さな声での付け足しに田所君は「はあ!?」と素っ頓狂な声を上げて、を抱える腕に込める力を強めた。

「何言ってんだ!全然重くなんかねーよ、気にすんなそんなの。軽くて心配なぐらいだっつーの」
「あ、ありがとう」

 優しい人だからそう言ってくれるんじゃないかと思ってたけどいざ実際に言われると嬉しい。それどころか上ずった声でのお礼に「世辞じゃねーぞ」なんて返すものだから、本当に男前でかっこいいなぁなんて心底思ってしまった。
 なんだかいつもみたいな雰囲気に戻ってきた気がする。もうちょっと何か話そうかな、なんて思ったところに田所君は爆弾を落とした。

「つーかお前なんでそんな体離してんだよ。落ちたら危ねえから俺の首に手回しとけ」
「へっ!?」

 予想外の言葉に思わず裏返った声が出た。いや、言ってることは全くの正論なんだけど。未だに少し体をのけぞらせたままでいるせいでしっかりと抱きかかえられた下半身はともかく、上半身は少しぐらつきがある。それでも、抱き着くなんてそんな!今でさえこんなにくっついてるのに。
 動揺のあまりえっと、とかその、とか要領を得ないことを繰り返すを見て、田所君は眉を寄せた後ぼそぼそと言葉を続けた。

「あー、くっつくのが嫌だったか。悪い。別にそのままでも絶対に落としたりはしねえから安心しろ」
「あ、ちが!ぜ、全然嫌じゃない!」

 嫌がっているなんて勘違いは絶対させたくなくて、思わず大きな声が出る。急に叫んだに田所君はぽかんとしたような顔で何度か瞬きをして俯いた。見える頬はじわじわと赤くなっていって、その時初めて身長差の関係でいつもはるか上にある田所君の顔が今はの顔より少し下にあることに意識が行った。おかげでいつもより表情や顔色がよく見える。
 自分のことでいっぱいいっぱいで他のことに気を回す余裕も無かったけれど、もしかして田所君もこの状況に少しはドキドキしてくれているんだろうか。

「……そうか」
「うん」

 頷いて膝に置いて強く握っていた両手をそろそろと持ち上げる。震えそうになるのをなんとか抑えて両腕を田所君の首の後ろに回し体を委ねると、途端に今までとは比べようもないくらいお互いの顔が近づいた。がっしりとした体つきを、暖かい体温を感じて、心臓は今までで一番早く脈打ちに身体の異常を伝える。自分でもよく分からない感情に思わず叫びだしそうになるのを抑えて俯いた。視線を下げた先に映る首元のたくましさはのそれとはまるで違う。まだたちは高校生だけれど、田所君は男の子というより男の人という言葉が相応しい体つきをしていた。

「さっき、つい力入れすぎたって言っただろ」
「うん」

 心臓がうるさくなっていることに気付かれないように必死な中、しっかりと歩みを進める田所君がふいに呟いた。彼が言っているのはに当たりそうになった球のことだ。真っ青な顔で言っていたのを思い出して頷く。

が見てたから浮かれちまったんだよ」
「え?」

 びっくりして見上げた横顔はさっきよりもっと赤くなっている。

「他の男子と喋ってる時こっち見てたろ。それに嬉しくなって、次にスパイクする時つい強く打ちすぎちまったんだよ。まだが見てるかもしれねえって思って」

 思いもかけない言葉に目の前の顔を凝視すると低い声で「あんま見んじゃねえ」と怒られて、ちょっとおかしくなった。相手を気にしてたのはだけじゃなかったんだ。
 その事実に背を押されるように、少しの勇気を逃さないように。は田所君の首に回した両腕に少し力を込めて距離を無くし、彼の肩に額をくっつけた。

は、田所君の方見てたからちゃんとレシーブできなくて、男子のコートの方まで転がっていったボールを取りに行ったんだよ」
「!」
「我ながら見すぎかと思って、あえて田所君のこと見ないようにしたらこんなことになっちゃった」

 息を呑む音がすぐ耳元で聞こえるのと同時に、ずっと一定のリズムで体に伝わっていた振動が止まる。歩みが止まったのだ。

 立ち止まった田所君の腕の中では雑音も耳に入らない。沈黙の満ちる廊下で数秒間、世界に二人しか存在しないみたいだった。

「……そうか」

 ぶっきらぼうな声でそれだけ言って、また田所君は歩きだした。扉の閉じた教室から聞こえる教師の声が、心地のいい振動が、また戻ってくる。
 少し前まで早く保健室につくことを願っていたのに、今はいつまでもこの道のりが続けばいいだなんて思うは現金だろうか。
 うずめた大好きな人の首筋からはかすかに汗の匂いがした。