桜が落ちる

 昨晩強い風が長いこと吹いていたからか、今日は朝からよく晴れていた。雲一つない空は夏の突き抜けるような青さのそれとはまた少し異なり、淡い光がぼんやりと碧をぼかしたような色合いをしている。
 皆で朝餉を取った後に男士達が一日の役目を振り分けられる時間はとうに過ぎており、時は昼下がりを迎えている。広い本丸の庭から聞こえる短刀たちの駆ける軽い音と笑い声に今日の非番は秋田と平野に前田だったか、と同田貫は思考を巡らせた。
 短刀たちが鬼ごっこをする開けた空間からは少し離れたところに、審神者の自室はある。本人としては短刀たちや他の男士たちが楽しそうに遊ぶ声を聞くことが大好きだ。しかし「騒いでは主の邪魔になる」などと男士たちに気を使わせることを避けるため、本丸の奥に彼女は自室を構えたのだ。もちろん続いた空間のため、自室は遊び場からはほんの少し駆ければすぐに見える距離だが、段々と細くなる庭の道は実際よりもその部屋がどこか遠く思わせるようだった。
 少し遠くから響くように聞こえるだけで、明るい笑い声はどこか現実味の無いように感じられる。

 書類作業を一段落させたは手にしていた筆を硯に置いて横を向き、開いたふすまの向こうにある縁側の、そのまた更に向こうに見える庭に目をやった。彼女が手を止めたことに気付き、ふすま近くに控えていた近侍の同田貫も兜を磨く手を止めその顔を見つめる。視線を追うように自身の後ろの庭に目を向けると、咲き誇る桜が目に入った。

「今年も綺麗に咲いたね」
「……そうだな」

 感慨深そうに呟くに、同田貫は同意した。
 ごつごつとした幹から伸びる枝に、咲き乱れる可憐な花。審神者の部屋のすぐ外にあるそれは、本丸に数ある桜の木の中でも特に大きなものだ。満開を迎えたのはすこし前でそろそろ少しずつ花びらが散り始める頃だが、それでもまだほとんどの花が残っている。
 歌仙のように雅を至上とする質ではないが、そんな同田貫でも時に見上げて惚れ惚れとするほど、その桜は美しかった。

 桜と言えばその淡い色をした花ばかりが注目を浴びがちだが、その太い幹も同田貫は嫌いではなかった。
 審神者と刀剣男士が契約を交わす時には、いつもどこからともなく桜の花びらが降り注ぐ。いつだったか、自分のような刀に桜は似合わないと審神者にぼやいたことがあった。
 しかし彼女は、そんなことはないと珍しく口調を強くして言った。同田貫のようなたくましく男らしい男士こそ、桜が映えるのだと言われたことを今でも昨日のように覚えている。
 雨風を浴びればすぐに散ってしまう桜の花は、その儚さの中に命の美しさを魅せる。対して地面にしっかりと根付く幹の力強さは、そのまま生命の力強さだ。何百年もの間その地に深く構え、節くれ立ち、ねじれて、厳然とそこにある。桜という木は、この太い幹と繊細な花を合わせて初めてその美しさを完成させるのだ。
 刀にも、それこそ美術品のような美しさを持つものもあれば、同田貫のように大量に作られ美しさを度外視して強さを求めたものもある。そんな刀と桜はどこか、似ているのではないだろうか。
 もし花が美しい見目の男士であるのならば、自分は無骨な幹だ。太い幹には、可憐な花がよく映える。同田貫が無骨だなどとが言ったわけではないが、どちらが優れているだとか、そんなことではないのだと。どちらも「桜」というものを構成する存在なのだと、彼女が気づかせてくれた。
 それからは、桜というものが嫌いではない。隆々たる幹を見つめて、そんな事を思う。

 同田貫と同じように桜を見ていた審神者は少し迷ったように机の上の書類を見て、その後視線を桜に戻した。落ち着かない雰囲気を感じ取って、同田貫はの方へと視線を戻す。
 桜の美しさに中てられたように目の上に手をかざし、眩しそうに目を細めた後は同田貫へと笑いかけた。

「ちょっと一休みして、お花見しない?お仕事も一段落したし」

 ね、と首を傾げる姿に断る理由はどこにもない。同田貫が頷いたのを見て、審神者は嬉しそうに笑った。少し前に淹れた茶の入った湯呑を持って座布団から立ち上がり、はいそいそと室内からふすまの向こうへと向かう。
 自身の湯呑を持って、同田貫もその姿にならう。兜と手入れ道具は畳の上に置いたままだ。

「淹れ直すか?」

 並んで縁側に座ると、の湯呑の中身が半分以上減っているのが見えた。それを指差して聞くと、彼女は穏やかに首を横に振る。いいの、と断る声は柔く落ちた。

「なんだかいい気分だから、同田貫も立ったりしないでこのまま一緒にお花見しよう」
「……分かった」

 そのまま無言で、並んで桜を眺めた。
 目の前の桜を見つめながら時が過ぎる二人きりの空間は本当に穏やかで。庭の向こうにいる他の男士達の声は、切り離されたようにどこか遠く聞こえた。存外、こうやってただ大木を見つめるのも悪くないと、そう思えた。ちらりと隣を伺えば、審神者も目をほんの少し細めて桜を見つめている。
 見られていることに気付いたのか、急にこちらを向く瞳に肩を揺らす。そんな同田貫を見て、はおかしそうに笑った。

「そんなに驚かなくても」
「驚いてねぇ」

 仏頂面で言う姿には更に笑う。笑うな、と眉間のしわを深めて言えば、口元をまだ笑みの形にしながらも素直に彼女は頷いた。
 また前を向いて眺める庭に、少し風が吹いた。あおられた桜の花はさらさらとその花弁を落とす。ああ、と少し残念そうに声を上げて、審神者は縁側の下にある自身の草履を履いて立ち上がった。

 が庭に降りるのと同時に突風が吹いて、地面に落ちた花弁が舞い上がった。桜色の嵐が淡い色の空に溶ける様は例えようもなく美しい。
 その真ん中に立ってこちらを振り返る彼女は付喪神の自分より余程神々しく見えて、どうしようもなく泣きたくなった。

 なんで、どうしてこんな。

 人の形を、その心を持たなければ。こんな気持ちも知らなくて済んだのに。笑いかけられるだけで胸が痛み、どうしようもないものが胸をせりあがってくるような。それでいて、一瞬も逃さずその姿を瞳に焼き付けたいと思う。そんな感情を本来ものであった自分が抱いてしまった。
 他の男士であったら、その気持ちを打ち明けただろうか。たとえばもし、小狐丸や燭台切のような、普段から素直に気持ちを伝えられている男士が彼女に懸想していたとしたら。刀という本質をもってしても、人間である彼女に思いを伝えただろうか。もしかしたら、正直に話すかもしれない。
 だが、同田貫はどうしてもその勇気を持つことが出来なかった。いくら人の姿形を成していても、元々刀の付喪神である刀剣男士は根本的に人間とは異なる。老いることも寿命で死ぬこともなく、命を落とすのは、本体である刀身が破壊された時だけだ。
 彼女にこの想いを告げ、もしそれが叶ったとして、その後はどうすれば良いのだ。人である彼女は、いつかは自分を置いて死んでしまう。その事実は、想像するだけで同田貫に吐き気を催させた。
 仲間として、配下としてその日を迎えるなら。それでも酷く辛いだろうが、耐えられる気がした。だがもし、愛して愛されてしまったら。彼女から与えられる愛を知ってしまったら、その後に必ず来る喪失をきっと自分は耐えることが出来ないと、確信をもって知っていた。

「もうすぐ桜の季節も終わっちゃうね」
「……ああ」

 幹に手をやり、散り始めた桜の木を見上げるその少し憂いた瞳がこちらを向けば、どんなに心が震えるだろう。想いを終わらせようとしているのに、どこかにやはりそう望む自分がいることを否定できない。
 出もしない涙が頬を伝う気がした。