「おい!!」

 ボーダー本部、いつもと変わりない週末の昼下がり。個人ランク戦のロビーへ向かおうと廊下を歩いていたところに後ろから大声で呼ばれて、は思わず身をすくませた。

開国要求

 体を縮めたままそーっと後ろを振り返ると、予想していた通りの人物(それも恐ろしい形相だ)が少し離れた所に立っているのが目に入る。

「あっ、おいテメー!!」

 たまらず駆け出した背中に更に音量を増した怒声がかかった。やばい、カゲめっちゃ怒ってる。
 トリオン体ではあまりかく筈のない汗が嫌な感じに背中を濡らすのを感じながら全速力で走る廊下の先、あと数歩の距離にあった曲がり角の壁がものすごい速さで背後から伸びてきた何かによって一部砕かれた。

「うわっ!」

 足に急ブレーキをかけてなんとか止まった頭の上に激しい破壊音と共に落ちてきた粉塵が降りかかる。たたらを踏むの耳のすぐ横を、白く光る切っ先がまた恐ろしいスピードで後ろに引いていくのが視界の端で見えて血の気が引いた。マンティス出してる…!

「もっ、模擬戦以外の戦闘禁止!」
「じゃあ逃げんなボケ!!」

 頭を抱えて後ろに叫ぶともっともな怒号が返ってきて言葉に詰まる。無茶苦茶をやってるのはカゲだけど、原因がにあるのは確かだ。これ以上のせいでカゲが暴走して、また減点をくらったら流石に申し訳ない…!そう思って、逃げたくなる足をなんとか抑えた。
 拳を握りしめてその場に踏みとどまるのと同時に間髪入れず手首を掴まれ強く腕を引かれて振り向かされる。勢いのままカゲはの逆の肩を強く押し、すぐ後ろにあった壁にの体を押し付けた。
 壁に叩きつけられる音が廊下に響く。幸いトリオン体でいるおかげで、派手な音の割に打ち付けられた背中と後頭部に感じる痛みはほとんど無かった。前に立つカゲを見ようと上げた頭、その耳のすぐ横に激しく拳が打ち付けられた。
 握りしめられた拳と壁の間から砕けた表面の欠片が床に落ちる。大きな音と顔に感じた風圧に一瞬目をつむると、なぜかカゲの方が辛そうに顔をゆがめた。

「……いい加減にしやがれ……一体なんなんだよおめーの最近の態度は」

 唸るように低い声がを詰る。

「俺と出くわしそうになるたんびに逃げやがって…」

 何か言おうと思っていたのに、こちらを睨みつける目のあまりの鋭さに体が固まった。こんなに怒っているのを見たのは久々かもしれない。
 でも、カゲが怒るのはもっともだ。

 ここ2週間ほど、はカゲを意識して避けていた。同じクラスである学校でも、ボーダー本部でも。理由は簡単だ。カゲに、恋をしてしまったから。避けていたのは、自分の恋心に気付いてカゲと会うのが恥ずかしくなってしまったからではない。好きになったことが、サイドエフェクトのせいで本人にバレてしまうのではないかと思ったからだ。
 カゲの感情受信体質がどの程度まで感情の内容に判断を付けられるのかは分からないけれど、これまで散々友達として付き合ってきたのだ。きっとカゲはが自分に対して向ける感情の質が変化したことに気付く。それでこの気持ちがバレて、気まずく思われて、友達ですらいられなくなったら。考えただけで涙が出そうなくらい心臓が痛んで、はカゲを避けることに決めたのだった。
 授業の合間に話しかけられそうになったら今は忙しいと断ったり、本部でその姿を見かけたら誰かと話している最中でも急いで逃げたり。回数を重ねるたびに、逸らした視界の端に見える、元からお世辞にも良いとは言えないカゲの人相が更に恐ろしさを増しているのに気付いて危機感は感じていたのだけれど。どうすればいいかも分からず、焦りだけが胸に募っていた。

「……ちゃんと話したらどうだ、いい加減」
「……」
「可哀想だからな、カゲが」
「……うん」

 昨夜混成部隊で防衛任務をした際に穂刈からそんな事を言われて、そろそろこの状況を変えなければいけないと決心し、今日は本部に来たのだった。まあ、結局意向が固まらないうちにカゲと出くわしてしまって、焦りのあまりまた逃げようとした結果こんなことになったんだけど。
 そんなの勝手な都合をカゲは知る由もない。だからせめて壁に押し付けられたままただひたすら息を止めて、言葉の続きを待った。

「おめーも俺が、」

 そこでカゲは一度ぐっと息を止めた。何かに耐えるように引き結ばれた唇の端がかすかに震えるのが見える。

「……俺のことが嫌になったのか」
「!」
「嫌いになったならはっきりそう言いやがれ……! 急に避けまくりやがって、ふざけんな」

 少しの間を置いて食いしばった歯の間から絞りだされた言葉に、今度はが息を飲み込んだ。

「慣れてんだよこんなんは……ボーダーに入る前はいつだってどいつもこいつも気味悪がって俺から離れてった」

 苦々しげな呟きにはっとする。
 感情受信体質というサイドエフェクトのせいで、カゲはずっと辛い思いをしてきたはずだ。そしてその苦悩は、ボーダーができる前はもっと酷かっただろう。今みたいに近界やトリオン、サイドエフェクトなどの存在が世間に知られていなかった頃はきっと気味悪がられたこともあったはずで。

「けどボーダーの奴らは……お前は!俺のクソ能力を知っても離れなかった……だからこれからもそうだって思ってたんだよ!」

 乱れた前髪の奥から見える寄せられた眉は、がその頃の気持ちを甦らせてしまったのであろうことを示していた。

「クソが……こんな…こんな筈じゃなかったのによ」

 呟くように落とされる声は最初の怒鳴り声とは比べられないほど小さい。
 逃がさないようにを壁に押し付けていた大きな手は段々と込めた力を緩めて、隊服の胸倉あたりを弱々しく掴んだ。

「俺がなんかしたってんだったら謝る、だから頼む……頼むから避けたりすんな」

 かすれた声での懇願に心臓が握りつぶされるような罪悪感を覚え、ようやくは自分がどれだけ自分勝手な態度を取っていたのか自覚した。

「カゲが、好きなの」
「…………は?」

 小さな声での告白に、カゲはうつむかせていた顔をはたと上げた。
 張りつめていた空気の中に間の抜けた疑問符が響いて消える。大きく見開かれていつもよりほんの少し剣呑さが薄れた瞳は驚いた野良猫みたいだ。ありありと驚愕を浮かべる顔に今更気恥ずかしさを覚えて、は早口で言葉を続けた。

「好きになっちゃって、知られたくなかったけどカゲのサイドエフェクトだったら絶対気付いちゃうと思ったから……それが嫌でずっと避けてたの」

 呆然とした表情でこちらを数秒見つめた後、カゲはゆっくりと下を向いてそのくせ毛のうねる頭をの肩に落とした。

「…………はあ~……」

 長い長いため息がほんのかすかな振動となって伝わる。先ほどまでの緊迫した状況下でとは違う、近さを意識させるような触れ方に思わず体を固くした。
 首筋をくすぐる黒い髪は想像していたよりずっと柔らかい。

「ふっざけんなよお前ほんと……」

 くぐもった声からはさっきまでのような辛そうな響きは消えているけれど、やっぱりいつもより大分弱々しい。

「俺がどんだけ……どんだけおめー……」
「ごめん……ごめんなさい」

 好きな人との触れ合いにドキドキしながらも、どこまでも申し訳なくて胸が痛くなった。
 やっと口にできた謝罪の言葉にもう一度大きなため息をついた後、カゲはの胸倉を掴んでいた手を背中に回した。

「……次俺の事避けようとしやがったら八つ裂きにすっからな」
「!」

 次。次と、今そう言ってくれた。許して、くれるんだ。

「……うん。もう絶対しない」
「言ったな。破ったらぶっ飛ばす」
「うん」

 安心で声が震えそうになりながらも大きく頷いたに、カゲはようやくその顔を見せてくれた。

鎖国禁止条約

 それまでの怒りを示すようにごすごすと何度か頭をの肩に打ち付けた後カゲは体を離し、掴んでいたままだったの腕を引っ張った。

「おら、対戦ブース行くぞ。ボコボコにしてやる」
「えっ」
「あ? さっき向かってたのそっちの方向じゃなかったのかよ」
「いや、そうなんだけどロビーでゾエと待ち合わせしてて。カゲのこと相談しようと思ってたの」
「……もう必要ねーな」
「ふふ、そうだね」

 二人で向かった個人ランク戦のロビーにはゾエどころか荒船や穂刈、鋼に犬飼なんかもいて冷やかされる結果となったのだけど、それはまた別の話。