爪先から服従

「フーゴ、上手ね」
「ありがとうございます」

 頭上より賛辞が降ってくる。そして僕は、忠誠を誓うように頭を垂れている。視線の先には愛しい女の足があった。むきだしの足先は僕より一回り小さくて、頼りない。

 家に帰ってきたら恋人がペディキュアの準備をしていたので、「やってあげようか」と申し出たのだ。驚いたように瞬きしていたけれど、それでも直ぐににっこりと笑って彼女は頷いた。そうして、冒頭の状況になる。
 僕がの前に膝をついてその足を見た時には、既に小さな半透明の四角はどれも表面がつやつやしていて形が整えられていた。綺麗ですね、と素直な感想を述べれば「さっき磨いたの」とのことだった。よく分からないが、色を乗せる前にこまごまとした準備が必要らしい。いつだって、なにか美しいものの裏には努力がある。
 先程洗ってきたらしい彼女の足先からはほのかに石鹸の香りがしている。そして、部屋にはそれを覆い尽くすほどにシンナーの匂いが漂っていた。きちんと窓を開けて換気をしていても、塗っている最中にポリッシュの独特の匂いが充満するのは仕方のないことだろう。ソファに座る恋人の足元に傅いて、僕は小さなブラシをこれまた小さな爪に広げていた。我ながら甲斐甲斐しいことだ。

 自分が『惚れた弱み』なんて馬鹿らしい言葉を心底実感する時が来るなんて思ってもみなかった。だって、そんなのおかしいだろう。女性は大切にするべき存在だけど、恋人同士というのは対等の関係であるべきだ。そう思っていた、はずだった。と、交際するまでは。
 初めて会った時には穏やかそうだなんて思ってたが、蓋を開けてみればずっとずっと複雑な人だった。高圧的なわけじゃない。恐ろしいわけでもない。けれど、気づいたら僕はに優位に立たれるのが嫌でも屈辱でもなくなっていた。男を尻に敷くだとか、そういうのとは少し違う。でもどこか抗えなくて、余裕たっぷりに翻弄されるのが何故か悪くない。そんな人だ。
 人は変わるものだ。誰でもなく自分自身のことなのに、ベースコートを塗りながらどこか他人事のようにそう思う。そりゃあもちろん元より恋人を大切に扱う男ではあったつもりだけど、ここまで尽くすタイプでもなかった。しかもお願いされてじゃあなく、自分から進んでそうするなんて。
 が僕より年上だからだろうか。男の僕に対して「かわいい」だとか「いい子」だなんて的外れで似合わない言葉をいくつもいくつも紡ぐはどこまでも余裕があって、僕はどうしたって彼女に敵わない。……こんな風に思ってしまうくらい心底参ってしまってるし、もし年が変わらなくてもそれは変わらないかもしれない。
 進んで行う服従と献身はどこか、焦がしたカラメルや胸やけがするくらい砂糖を入れたコーヒーに似ている。背徳的な苦みを垂らした、甘い感情。悪いことなんて一つもしていないのだけれど、自分よりずっとか弱い存在に首を垂れるそのことにどこか後ろ暗いものを感じてしまうのだ。

 指にそっと手を添える度、少しだけくすぐったそうに足先が揺れ動く。見上げたは口端を少しだけ上げていた。その目はひどく楽しそうに細められていて、三日月のように僕を見下ろしている。まだ真昼間だっていうのに、夜の切れ端がその瞳から見え隠れするようだった。
 速乾性のベースコートが乾いたら、次はポリッシュだ。爪本来の色を隠し、段々と広がるその色は淡く柔らかい。
 くすぐったさに慣れてきたのか、僕が指に触れてもぴくりと動くのみになった親指の爪へとブラシを乗せながら尋ねた。

「どうしてこの色にしたんですか?」
「フーゴの髪と同じ色だから」

 間髪入れずに返ってきた答えに思わず固まる。

「……そう」

 平坦な相槌を返したけれど、じわじわと首から熱が上るのが自分で分かって殊更深く顔を俯けた。
 ……こういうところがズルいんだよなァ~!
 心の中でため息をついた。平気でこちらを(物理的に)見下ろしはするけれど、ちゃんと僕のことを好きでいてくれているってのはよく伝わってくる。耳は赤くなってないといいんだが。もうとっくに格好がつかなくなってるかもしれないが、あんまりにも情けない男に見えてたら恥ずかしい。そんなフーゴでも好きだよ、なんてが言ってくれるのが一瞬脳裏に浮かんで慌ててかき消した。
 下手なことを聞けば心が乱されるばかりだ。無心になって作業を進めようとどんどん手を動かした。最初に真ん中を、次に左右を。最後に爪のフチをなぞっておしまい。それを10回分繰り返したら完了。ベースコートをしている内に慣れた作業を手際よく行っていく僕を、はじっと見ているようだった。

「フーゴって器用よね」
「まあ、不器用ではないかな」

 マニキュアもペディキュアも──自分にも他人にもしたことはなかったけれど、こういう細かい作業は割と得意だ。一度コツを掴めば、後は迷いなく進められる。

「つむじが見えるの、なんだかかわいい」
「……」

 こういう、不意打ちの言葉がない限り!
 手元が狂って色が爪の外の肌へとはみ出そうになる。なんとか堪えたのを分かっているのやらいないのやら、軽やかな笑いが落ちてくる。普段は見えないから、と続ける彼女の声のトーンはひどく楽しげだ。それはそうだろう。僕の方が背が高いわけだし。 砂糖菓子のように舌触りの良い言葉は耳朶から侵入していきドロドロに僕の内を溶かしていく。甘く融解する。
 脆く崩壊する。見栄が、強がりが、プライドが。

 いつの間にか止めていた息をほっと吐きだした。ずっと曲げていた背中を伸ばして、⾧い間同じ姿勢を続けるうちに固まっていた首と肩を動かすと関節が鳴る。最後の左足の小指も終えて、すべての爪が僕の髪と同じ色をしていた。

「できました」

 初めてにしては上手くできたんじゃあないだろうか。よれもはみ出ている部分もなく、我ながら完璧な出来だ。
 彩られた指先は、仕上げにトップコートを塗られてつやつやと輝いていた。

「ありがとう!」

 久方ぶりに見上げた恋人は、爪よりももっと輝く笑顔を僕に向けている。明滅に似た甘い刺激が胸の内で瞬いて弾けた。
 まだ乾いていない爪より少し上に、そうっと顔を寄せる。足の甲に唇を落として、降伏のキスをした。