雷と林檎

単行本8巻未収録分キャラクタ-、本誌(89話以降)ネタバレ注意
※全てが捏造、妄想なので要注意

「巳坂さ──」
「イブキ」

 言い終わる前に口を挟む。己の名字を口にしようとしていたは、一瞬固まってから何も聞かなかったようにまた口を開いた。

「みさ」
「イ・ブ・キ」

 もう一度、先程より素早く割って入ると彼女は真一文字に口を引き結んだ。きっと見上げて睨んでくるのをじいと見返すと、さっと目を逸らされる。

「……イブキさん、お疲れ様です」
「おう」

 ようやく軌道に乗った会話にほっと彼女はため息をついて、軍部からのメッセージを伝え始める。真っ直ぐに彼女を見つめ時折相槌を挟みながら話を聞いていると、段々向かいの落ち着かない様子が強まっていく。最初は鼻辺り、次は首、腹を飛んで脚、そして靴。少しずつ視線を下げながら、ボソボソとは言った。

「……あの、服着てくださいよ」
「着てんだろ」
「分かって言ってますよね、上も着てくださいって話です! 鍛錬中なら分かりますけど、今運動してないじゃないですか」
「俺代謝高いから暑いンだよ」

 ほら、と手の甲を彼女の頬に押し当てると、女は熱した鉄でも押し当てられたように飛び上がって、電流でも流されたかのように後ろへと飛び退く。白い肌は瞬く間に首から顔まで赤く染まっていた。

「何すんですか急に‼」
「俺結構体温高いかと思ってたんだがお前も割と高いな」
「話聞いて‼」
「つーか俺が上着てないと何か困んのか?」

 ずい、と離れてしまった距離を縮めて目の前に立つ。またさっと俯いた彼女の耳は真っ赤だ。腹の底から笑いたい心地で、伊武基はかわいい女を見下ろした。


「──ってことがあってよ。アイツ、いっつも俺の事ちゃんと見ねえなと思ってたんだが……俺が上に何も着てない時だけそうなんだって気づいたわ。男の裸に慣れてねえんだな」

 どこか面白そうに話す伊武基を、奈ツ基はなんともいえない気分で見た。
 奈ツ基も鍛錬中、上裸でいる時に、伊武基の話している女と会ったことがある。だがその時の彼女は全く照れているようには見えなかった。ごくごく平然とした様子で奈ツ基と目を合わせ、会話をしていた。つまるところ、彼女は伊武基相手だから照れていたのだろう。きっと本当はいつだって胸を高鳴らせながら伊武基と話していて、好きな男が身体を露わにしていればその緊張と恋心も隠しきれなくなる。そういうことなのだろう。

「初心だよな」
「…………」

 けれどそれを全く気づいてない兄に教えてやるのはなんだか癪で、奈ツ基はなんにも言わないことにした。まったく、戦うの以外はからっきしじゃねえか。

・・・

 鋭い瞳が自分を貫いたら最後、死んでしまうかもしれないと思ったのだ。
 
 六平国重はきっと、彼の為にこの刀を鍛え上げたのだろう。がそう思ってしまうほどに、刳雲は巳坂伊武基によく似合っていた。雷の性質を持った彼の玄力が妖刀と融け合って、恐ろしいほど硬質に輝いていた。
──粉々にされてしまう。初めて目が合った時、は咄嗟にそう思った。恋ではなくて、畏れだとか、恐れだとか。そういう類いの感情が湧き上がったのを彼女はよく覚えていた。一目で分かる桁違いの強さ。研ぎ澄まされた気迫が雷電のように彼の周りの空気を尖らせている。この男に近づけば、はきっと千々に砕けて跡形もなく壊される。触れたら最後、黒焦げになって心臓はもう動かない。

──そう分かっていたから、近づかないようにしていたのに……!
 巳坂兄弟が陸軍本部へと招集されて数週間。陸軍情報担当の彼女は、何故かよく巳坂伊武基と話す立場になっていた。今もそうだ。自分の一つ年上の巳坂伊武基と、一つ年下の巳坂奈ツ基。招集時に彼等に対する伝令を担当したからか、その後もなんとなく常に彼等への伝令担当になっている気がする。

「よォ、今日も忙しいな」
「……お疲れ様です」

 鍛錬中の伊武基は鍛え上げた肉体を晒している。なるべく目が合わないよう男の筋張った首筋辺りを見つめながら、は軽く頭を下げた。無愛想な奈ツ基はまだいい。問題は伊武基だ。何が面白いのかやたらと自分に構い、ちょっかいをかけてくる男。絵に描いたような不良で、とは相容れない存在のはずだった。
 会話をするようになって伊武基が恐ろしいだけの男ではないことはよく理解していたが、彼の言動は常にを翻弄した。雷のように鋭く刺激的で、迂闊に触ればきっと心臓を止められる。だから近づきたくないのに、あちらは彼女のような女が珍しいのか、妙に距離を詰めてくる。
 そうしているうちに、結局彼女は伊武基に痺れてしまっていた。今は戦争中で、恋だなんだと言っている場合ではないというのに。しかも相手は戦力の要も要、六人しかいない妖刀契約者の内の一人だ。戦場の最前線で命を賭ける、絶対に好きになってはいけない男。だから、彼女は必死にその恋心を潜めようとしていた。それでもやはり相対すれば胸が高鳴り、手が汗ばみ、彼が身体を露わにしていれば顔も赤くなってしまう。馬鹿正直な自分の身体が恨めしかった。


「お、林檎ちゃんじゃねえか」

 数日間前線にいた伊武基が陸軍基地へと戻ってきた翌日。次の任務地を伝えようと、は男のいる食堂にやってきていた。昼食を食べていた伊武基が彼女に気づいてそう言うのに、女は首を傾げた。

「りんごちゃん?」

 この場に誰か自分以外にもいてその人物を指しているのだろうかと辺りを見回したが、昼時を過ぎているので他には誰もいない。きょろきょろと首を左右に振り、最後に後ろを振り返ってから前に頭を戻す。いつの間にか座っていたはずの男が目の前に立っていて、は勢いよく仰け反った。

「うわっ‼」
「お前のことだよ。すーぐ赤くなるから」
「急に前に立たないで‼」

 そっくりかえって後ろに倒れそうになりながら、彼女は急いで数歩下がった。戦闘要員ではないとはいえ、腐っても軍人だ。鍛えているお陰で、体幹はしっかりしている。
 なんとか姿勢を保った彼女を伊武基は面白そうに見ていた。

「ほらな、言ってるそばから赤くなってる。皮膚が薄かったりすんのか?」

 コイツ~……‼
 ギリギリと歯ぎしりをしながらは伊武基を睨み付けた。誰のせいで赤くなっていると思っているのだろうか。ヤンキーは距離感がおかしいから困る。誰に対してもこうなのだろうから手に負えない。

「赤くなってないです‼」
「そっから否定すんのかよ。赤くはなってんだろ」 

 冷静な突っ込みにすら腹が立つ。聞かなかった振りをして軍部からの指令を伝え始めようとした彼女は、ふと露わにされた伊武基の身体の異変に気づいた。

「それ、新しい傷ですか」
「ん? ああ。一昨日ちょっとヘマしちまってな」

 伊武基が包帯に手をやりなんでもないことのように言うのに、は拳を握りしめた。

「……そうだったんですね。お疲れ様です。明日と明後日は任務もないので、ゆっくり休んでください」
「おう」

 もう怪我をしないでほしいだとか、傷つかないでほしいだとか。そんな事は口が裂けても言えないし、言う気もない。けれどこういった時、ひどく歯痒くて苦しいのだ。

・・・

 なんだあれ。俺の時と全然違うじゃねえか。
 気に入っている女と弟が二人きりで話しているのを初めて見た巳坂伊武基は驚愕した。このところ伊武基がしょっちゅう声をかけている女。彼が林檎だとか林檎ちゃんと呼んでいる彼女は、ごくごく落ち着いた様子で奈ツ基と会話していた。それだけならば伊武基だってそこまで驚きはしない。男と話すだけで固まるほどに初心だとは元から思っていないのだから。けれど、二歳下の弟は上裸の姿だったのだ。鍛錬の最中のため、伊武基と同じ色素の薄い髪はしっとりと濡れ、男の割に白い肌には幾筋もの汗が伝っている。それでも赤くなりやすい彼女の細面は至って平然としていて、なんなら時折アイコンタクトまでして会話を続けていた。
──アイツ、俺が同じような格好してた時はめちゃくちゃ動揺してたくせに、ナツキに対しては平熱じゃねえか。なんなんだ? 俺とナツキ、何が違う?
 これまでの彼女の言動諸々を思い返し、考慮し、伊武基は単純かつ明快な仮説にたどり着いた。

 林檎ちゃん、俺のこと好きなのか?

 考えてみれば、それが自分に対する彼女の反応を見て最初に浮かぶべき思考だったのかもしれない。けれどは伊武基がきちんと服を着ている時は──もちろん下はいつも着ているのだが──特に動揺する様子を見せなかったから、思いもしなかった。男の裸に慣れていないのだと、そう思っていたのだ。

 伊武基は地元では名の知れた問題児だった。中学でも高校でも弟と共に喧嘩を売買しまくり、暴れ回り、不良達の頂点に立っていた。そして伊武基は多くの者に恐れられてはいたが──同時に、モテもした。不良は、強い男は、ある程度必ずモテるのだ。しかし伊武基のような男を好む女は大体が押しが強く、分かりやすくモーションをかけてくるタイプだった。彼女のような好意を伝えてくるどころかひた隠しにしてくるようなタイプは今まで関わったことがなく、気づけずにいたのだ。

 へえ、そうなのか……ほー……そうかそうか……。
 他人事のように伊武基はそう思い、まだ弟と話している彼女の姿を見つめていた。腕を組みながらその横顔を眺めていると、じわじわと実感が湧いてくる。

 どこか腹立たしさを孕んだような、必死に見上げてくる瞳。少し経つとさっと逸らされるその目を覗き込むのが楽しい。低い位置にある、自分よりずっと華奢な肩と首筋。無遠慮に肩を組むと飛び上がって逃れようとするのをまあまあと宥めるのが愉快だ。熟れた果実のように、染まる頬。自分の一挙手一投足に翻弄され、すぐに真っ赤になるその顔が、好きだ。
 いつだって全力で仕事に取り組んで、照れを隠せないながらも一生懸命に自分へと情報を伝えようとする真面目な所が気に入っている。他愛もない会話を続けてその緊張が解けた時、時折ひどく自然に優しく笑う顔がかわいい。自分が怪我をして帰ってくれば、普段の羞恥など忘れたように血相を変えて身体に出来た傷を確かめ、急いで病室に連れていこうとする所が愛しい。
 ああ、俺もアイツのこと、すっかり好きになってるじゃねえか。
 口角が上がるのを自覚しながら、伊武基は一歩足を踏み出した。

「よ、林檎。何話してんだ?」

 大きな声に、女の背中がびくりと動く。怖々とした様子で彼女がこちらを見るのに、伊武基は手を上げた。
 獲物は決まった。ならば後は完膚なきまでに打ち砕くだけだろう。

・・・

「なぁ林檎、なんで俺のこと巳坂って呼ぶんだよ? 巳坂は二人いるんだぞ。ナツキのことはなんて呼んでんだ」

 任務の合間、基地へと戻ることの出来る数少ない日。すなわち、好きな女と会える日。伊武基は自身の職務をこなす彼女へと絡みに行っていた。
 もう出会って半年近く経つ。上裸姿の伊武基を見た際の彼女の赤面も少しずつマシになってきている。それだというのに彼女は未だに、頑ななまでに伊武基を名字で呼ぼうとするのだ。急な質問に、は驚いたように何度か瞬きしてから言った。

「ナツキ君って呼んでますよ」
「あ? なんであっちは普通に名前なんだよ」

 平然と返ってきた答えに、伊武基は少しだけ苛ついて彼女を真顔で見つめた。どうしてよく話す自分の方が他人行儀な呼ばれ方をしているのだ。

「巳坂さんの方が──」
「イブキ」 
「……イブキさんの方が、よく話すので。の中の『巳坂』はイブキさんだから、“じゃない方”がナツキ君って感じなんです。……言いたいこと分かります? あ、本人には言わないでくださいね!」

 彼女にとっての巳坂は伊武基で、奈ツ基は言うならば「巳坂弟」ということなのだろう。けれど流石に「弟」と呼ぶのは失礼だから、名前で呼んでいる。理解して、伊武基は頷いた。

「なるほどな。お前にとってのメイン巳坂は俺って事だな?」
「……」

 メインって、と彼女がボソボソ言うのが聞こえたが、既に伊武基の機嫌は直っていた。自分の方がよく話し、彼女にとって弟より近しいとはっきり言葉にされるのは悪くない。

──もう、踏み込んでしまおうか。伊武基の頭にふと浮かんだ考えは、悪くないものに思えた。
 彼女の気持ちは分かっているし、自分の感情も一過性の興味ではないと自覚している。今は戦時中で、自分は常に戦場に出ている。彼女は前線には出ないが、こんな時勢では明日何が起きるかも分からない。今日ここで別れれば、次にまた会えるかすら確信を持てない毎日なのだ。ひとり心の中で覚悟を決めて、ずいと伊武基は彼女に顔を近づけた。

「俺の方がよく話すって言うのにお前、なんで俺とは目を合わさねえんだよ。ナツキとは普通にしてんだろ?」

 さっと彼女の顔が強張った。ギギギと音がしそうな程ぎこちなく伊武基から視線を逸らす。半年経っても分かりやすい所はまるで変わらない。目が合えば照れてしまうから、という答えがよく分かっていて、伊武基はなおも言葉を続けた。

「それともなんだ? 俺は何か特別だったりするのか」

 笑い含みの声に、は顔を俯けた。滑り落ちた髪の隙間から頼りないうなじが見えて、男の嗜虐心がいたく刺激される。少し待っても返事は無くて、痺れを切らした伊武基は彼女へと手を伸ばした。 

「ほら、言ってみろって林檎ちゃん」
「…………」

 小さな顎に手をかけて少し力を込めると、簡単に上向いた。しかし見えた表情は想像もしていなかったもので、伊武基は仰天した。
 は、目に涙を浮かべていた。照れや羞恥から来るものではない。打ちひしがれて、惨めさと悲しみの入り混じる、苦々しい顔だった。
 取る行動を間違えてしまったのだと瞬時に理解して、伊武基は彼女の顎からぱっと手を離す。その行動にも、女は何も言わない。ただ黙って、悄然とした顔で伊武基を見ていた。

「悪い、そんなつもりじゃなかった」

 泣かせるつもりなどなかったのだ。ただ、また赤くなっているであろうかわいらしい顔を見たかっただけで。けれど伊武基が謝るのに、彼女の顔は余計に歪んだ。

「……なんですか、そんなつもりって。気を持たせるつもりじゃなかったってこと? 勘違いさせるつもりなんてなかったってこと? どういうこと」
「!」
「楽しいですか? 自分のことを好きな女を弄ぶのは」

 聞いたこともないような、硬質な声音だった。けれど同時にその裏には叫び出したいほどの激情が隠れているのが、震える響きから容易に感じとれる。冷たい声の薄い薄いメッキで覆った中に泣き出しそうなほどの悲しみが包まれている。伊武基が何かを言う前に、は言った。

「イブキさんからしたら体の良い遊び道具かもしれないですけど、一応も感情がある女です。触ったら面白い動きと音のするおもちゃじゃないんです」
「悪い、そういう意味じゃ──」
「もう謝るのやめてください。怒ってないんで、もうちょっかい出さないでくれたらそれでいいです」

 完全に間違えた。急いで距離を詰め過ぎた上に、勘違いさせてしまった。もう一度謝ろうとした時には彼女は自身の妖術を使って姿を消していて、伊武基はため息をついた。


「なあ、こないだは悪かった」

 数日後。伊武基はあからさまにに避けられていたが、なんとか彼女を見つけ出して話しかけた。女は伊武基をちらと見上げ、その後ふっと目を逸らす。

「いえ。気にしないでください」

 無視されるかと思っていた伊武基は一瞬安堵し、直後に現状が無視より更に悪いと気づいた。彼女は数日前のことなど何も無かったように振る舞おうとしている。それだけではない。恐らく彼女はこれまでのやりとりなど存在せず、二人は業務以外の言葉など交わしたことなど無かったようにする気なのだ。せっかくここまで距離を詰めたというのに。

「俺は、お前を揶揄いたかったわけじゃないんだよ。……いや、違うな。揶揄いはしたけど、お前を馬鹿にしたり笑い物にしたかったわけじゃねぇ」

 ただ、伊武基は彼女の色んな顔が見たかったのだ。

「ただ、お前がかわいいから。俺を好きでいてくれてるのに必死に隠してるのがかわいくて、言葉にさせたかっただけなんだよ。俺もお前が好きだから」

 最後の言葉に、彼女は目を見開いた。信じられない、とその瞳が言っている。だから今度こそ勘違いされないよう、伊武基は言った。

「林檎ちゃん、いや──。嫌な思いさせて悪かった。もう一回チャンスくれ」

 いつもの親愛を込めたあだ名ではなく、彼女の名前を呼んだのは久々な気がする。けれどは、少しの間黙りこくってから深くため息をついた。

「……今はみたいなのが物珍しくて気になってるだけですよ。もうちょっとしたら、イブキさんはきっとに飽きます。だから、嫌です」

 今度は伊武基が目を見開いた。ひどく冷静で、諦念に満ちた言葉だった。そしてそれは確かに、以前は間違いではなかった。彼女の反応が物珍しくて構ったのは、事実だったから。

「……きっかけがそうだったのは否定しねえが、今は違う。もうお前と話すようになって半年以上経ってんだ」

 の好きな所なら、幾つだって挙げられる。この先彼女が伊武基と目を合わせても動じなくなったって、きっと気持ちは変わらない。むしろ、それほどまでに気を許してくれたことに嬉しくさえなるだろうと確信を持って言えた。

「好きだ。お前が、ちゃんとな」

 改めての告白に、女の瞳が不安と期待で揺れている。

「お前の気持ちも、もう一回教えてくれ」

 もう絶対に、その目を逸らさせはしない。
 伊武基はしっかりとと見つめ合って、その久々に真っ赤になった顔が、震える唇が、言葉を形作ろうとするのを辛抱強く待った。