指切りなどでは物足りないので
※全てが捏造、妄想なので要注意
明日、イブキとナツキは東京へと旅立つ。強さを見込まれて陸軍に招集されたのだ。イブキの彼女である私は妖術なんて使えないから、ここで帰りを待つしかない。最初はついていくとゴネたのだけど一蹴された。本当に、ものすごくゴネたけれど、ダメだった。こういう時のイブキは絶対に譲らないから、数日で諦めた。
「しばらくこの部屋も見納めかあ……」
勝手知ったるイブキの部屋。部屋の主人が荷造りをしているのを横目に、私は彼のベッドに寝転がっていた。天井の染みの数も覚えるくらい、何度も来ている部屋。次に見られるのはいつになるのだろう。大きな溜息をつくと、こちらに背を向けたままイブキが言った。
「別に俺がいなくたって来りゃいいだろ。母ちゃんに言っておく」
「え、いいの?」
「好きにしろ」
あっけらかんとした口調だった。そこまで信用してくれているのが嬉しい気持ちと、「そういうことじゃない」という気持ちが入り混じる。私は、イブキがいる、この部屋に来たいんだよ。イブキと一緒に、この部屋にいたいの。
「……ありがと」
けれどそんなことを言ったって仕方ない。だって私がゴネたって、泣いたって、いやだって、もうイブキは行ってしまうのだから。だから大人しく感謝の言葉だけを伝えた。小さい声に、イブキがようやくちらりとこちらを見た。この彫刻みたいに鋭く整った横顔も、明日で見納め。
「東京かあ……きっとイブキは東京で色んな人と知り合って、私のことなんか忘れるんだ……」
「随分信用がねえなあ」
半分冗談で半分本気のいじけた言葉には、またからりとしたトーンで言葉が返ってきた。こういう軽く流してくれる所が好きで、嫌い。イブキに信用を置いてないわけじゃない。信頼してないのは自分自身の魅力。信頼しているのはイブキの格好良さだ。
せっかく主不在の間の訪問許可をもらったのに、考えれば考えるほど寂しくなるばかり。ごろりと寝返りを打って、ベッドに突っ伏した。
「きっと東京の女の子達は皆お洒落でかわいくて、妖術も使えるんだ……」
──本当に恐れているのは、そんなことじゃない。本当に怖いのは、イブキが私の知らない所で危険な目に遭うことだった。イブキが戦場にいるのは一ヶ月になるのか、一年になるのか、十年になるのかも不明だ。そもそも生きて帰ってこれるのかだって分からない。イブキは本当に強いから、最前線に出るのだろうし。
戦場から遠く離れた地で待つ身のくせして暗いことは言いたくなかったけれど、本当は不安でいっぱいだった。私はイブキがいたら他に何もいらないのに、その唯一がいなくなってしまう。それが怖くて、耐えられなくて、無理矢理違うことを嫌がっている振りをしている。自分でも本当はよく分かっていた。
「あーうるせえ」
うんざりした声が鼓膜を震わせる。次いでちょっと強めの力で肩を叩かれた。イブキの手だ。
「ちょっと手貸せ」
突っ伏していた頭を少しだけ上げると、イブキは私へと手を伸ばしたままでいた。手のひらは上を向いている。
「……何急に」
「いいから」
うつ伏せになったまま右手をイブキの方へと伸ばすと、「逆」と簡潔な一言が返ってくる。仕方ないから起き上がってベッドの縁に腰掛けた。イブキは床に座って荷造りしているから、私の方が高い位置にいる。いつもは見えないつむじも見える。左手をイブキへと差し出すと、高い体温が私の手首辺りを掴んだ。そのままイブキの顔が左手に近づいてくる。なんだろう、と思う間もなく薄い唇が開く。
「いっ!!」
イブキは渾身の力を込めて、私の指を──薬指を、咬んだ。ガリ、と音がしないのが不思議なくらいの衝撃に、私は勢いよく腕を引っ込めた。
「いったいんだけど!!」
信じられないくらい痛い。じんじんする。慌てて指を確認すると、指の付け根の少し上あたりにくっきりと歯形が付いていて、恐ろしいことに血まで滲んでいた。皮膚が切れている。
「何してんの急に!?」
「お前が信用しないから仕方なくだよ」
「は!? なんの──」
「約束だ。よそ見なんかしねえっていう」
怒りのまま捲し立てようとした所にどこまでも落ち着いた声が被せられる。その静かな強さに気圧されて、私は押し黙った。
「そんで予約だ」
「!」
「その傷が治るまでに……は、無理だけどな。その痛みをお前が忘れる前には、絶対に帰ってくる」
イブキが立ち上がる。私よりずっとずっと上から、雷みたいに鋭い目が見下ろしてくる。無言でまた手を差し出してくるから、私は右手で庇っていた左手を、おずおずと伸ばした。さっきよりずっと優しく、乾いた手が腕を引く。わざわざ立ち上がったのに今度は片膝をついて、イブキはまた顔を近づけた。羽根が撫でるような優しさで、傷のある場所に唇が落ちる。さっきよりずっと軽い触れ合いなのに、さっきと違って小さな音がした。
口づけの音と一緒に、心臓と同じ速さで脈打つ痛みが、薬指から全身へと広がっていく。ただの疼痛だったはずのそれはいつの間にか甘やかなものに変わっていく。いっぱいいっぱいになって何も言えない私の顎に、節ばった指がかかった。
「分かってるよな。お前も俺がいない間よそ見したら許さねえからな」
こちらを覗き込む目は、今し方愛しい彼女にプロポーズもどきのことをしたとは思えないくらいに据わっていた。低い声も、敵対するチンピラをぶちのめしている時くらいドスが効いている。それなのに、私はどうしようもなく参ってしまっていた。耳元で心臓の音がする。みっともないくらいに顔が真っ赤になっているだろう。
「はい……」
「おし」
一度ぐりりと容赦なく傷口を押してから、イブキは私の手を離した。顎からも。そして今度は自分の左手をこちらへと差し出してくるから、私は薬指の傷をさすりつつ首を傾げた。
「な、なに」
「決まってんだろ。お前も早く俺に痕つけろ」
面倒くさそうな口調で、凄いことを言っている。
もうこれ以上早まらないと思っていた脈拍が限界を超えそうになるのを感じながら、私はイブキの薬指に呪いみたいな誓いを刻むべく口を開いた。