一周約15分
夕飯でも食べに行かないか、とメールが来たのが2月13日の夕方頃。退勤と同時に携帯をチェックしたら数日前から会いたいな、と思っていた人からのお誘いが来ていたのだ。あんまりにも私に都合が良くて、文面を見たときには夢でも見てるんじゃないかと思ってしまったくらいだ。けれど何度見返しても、頬をつねっても柴さんからのメールはしっかりと受信フォルダにある。飛び上がりたい気持ちを抑えて、は返信メールの文面を考えた。
それが約一日前。すぐに浮き足だった気分で『行きたいです』と返事をしたは良かったものの、今日の出社と同時に急ぎの業務が入ってきて、昼前にはどうやら残業確定だと認めざるをえなかった。深夜まではいかないだろうけれど、夕飯時は少し過ぎそう。そんな中途半端な時間に終わりそうな予感を覚え、お昼ご飯を食べながら泣く泣くやっぱり会えなさそうだと柴さんにメールをした。泣いている顔文字をつけたそれには思ったより簡潔な返信がすぐに返ってきて、ちょっぴり複雑な気持ちになった。
もうちょっと早く誘ってくれてたらな。
午後8時。なんとか仕事を片付けて、帰る準備をしながらそんな事を思う。仕事が忙しいのは変わりなかったとしても、他の雑務を昨日より前に片付けたりして、もう少し早めに上がれたかもしれなかったのに。まあ、でも誘ってもらった側なのにこう思うのも失礼だ。はバレンタインに会おうと誘う勇気がなかったのだし。
と柴さんは付き合っていない。ちょくちょくメールをしたりご飯を食べに行ったりしているけれど、それがデートかと聞かれると微妙なくらいの距離感を保っている。だから今日誘ってくれたのも、意図してバレンタインデーだからなのか、偶然2月14日なだけなのかも判断できずにいた。あっさり引き下がったのも、別に何も考えてなかったからなのかな。
そんなことを考えながら会社の入ったオフィスビルを出たの前に、大きな影が立ち塞がる。街灯に照らされたその人はと目を合わせて手を上げた。
「お疲れさん」
聞き慣れた声が耳を通り抜けて、脳に届くまでに数秒かかる。少しの間ぽかんとしてから、ようやく声を上げた。
「え、柴さん!」
大きな声に柴さんは小さく笑った。
「遅くまで頑張ってたねぇ」
「ずっと待ってたんですか? そしたらもっと急いだのに!」
「俺が好きで待ってたんやしあんま気にせんでな」
なんでもなさそうに言うけれど、吐く息は白い。寒いなか待っていてくれたんだと分かって申し訳なくなった。
「がもっと遅くまで出てこなかったらどうしてたんですか」
「いやー、流石にもうあと1、2時間くらいしたら撤退しよかなって思てたけど。キモいし」
キモくないし、これ以上仕事が長引かなくてよかった。きっと彼の性格からして、会えずに帰った場合は待っていたことも特にに言わないでいただろうことが想像できた。そうしたら、何も気づかずにこの日を終えていたのだ。そうならなくて、本当に良かった。
「柴さんも夕飯食べてないんですか?」
「食べてないよ、一緒に食べよ思てたから。けどさっきまで向かいの喫茶店入ってたからそんな腹減ってるわけでもないで」
流石にずっと外で待っていたわけではないし、何も食べていなかったんでもないと分かって、少しだけ安心した。も18時頃にちょっとお菓子をつまんだから、物凄くお腹が減ってるわけじゃない。ほっとしつつそう告げると柴さんは頷いた。
「そしたらゆっくり店探そ。なんか食べたいもんある?」
「うーん、そうですね……」
ここら辺は商業施設も多いから、きっとどんな料理でも少し探せば見つかるだろう。何がいいかと考えつつ周囲を見渡して目に飛び込んだのは、レストランではなくすぐ近くにある大きな観覧車だった。ここから歩いて5分くらいの場所にある遊園地。通勤時いつも目に入るけれど一度も行ったことはないそこに、こんな日だからか変に意識が行く。柴さんもが目をやったものに気づいたのか、同じ方を見上げた。
「意外と遅くまでやってんのやね」
綺麗やわ、と言うのに頷く。夜の闇の中ひときわ輝く観覧車はゆっくりと回っている。遠すぎて分からないけれど、きっと中ではたくさんのカップルが空中散歩を楽しんでいるのだろう。
「夜に観覧車乗った事ないかもです」
「俺もないなあ」
まあ、それは置いておいて。せっかく聞いてくれたのだし今は何を食べるか考えなければ、と思い直そうとした所で、柴さんがじっとこちらを見ているのに気づいた。
「……行く?」
「え?」
「遊園地デート。きっと中に食べるとこもあるよ」
・・・
平日の夜だからか、遊園地はそこまで混んでいなかった。22時まで営業しているとチケットの窓口で知って驚きつつ、柴さんとは観覧車の列に並んだ。あんまりお腹も空いていないし、先にアトラクションでも乗ろうかという話になったのだ。一度の回転で多くの人が乗れるから、進みは思った以上に早い。バレンタインの夜にデートできているという事実に心の準備ができるより前に、たちの番がやってきた。いってらっしゃい、とスタッフさんに見送られ、分厚いガラスの扉にロックがかかる。
観覧車って結構高く上がるんだな。そんな当たり前の事を、中に入ってから思い出した。しかも側面だけでなく床もガラスでできているから地上までよく見える。全面ガラス張りだ。密室で二人きりになればドキドキしそうだと思っていたけれど、は今違う理由で心中穏やかではなかった。少しずつ地上が遠のくほど、心臓が落ち着かない動きをする。景色を見るために乗ったはずなのに、ろくに外が見られない。向かいに座る柴さんは平気そうだった。当たり前か、あんな妖術を使えるのだし。高さなんて屁でもないだろう。言葉少なになったをちらりと見て彼は口を開いた。
「……隣座ってもいい?」
「えっ、ダメ!」
「え!?」
衝撃、という顔でこちらを見る柴さんに、意図していない形で伝わってしまったことに気づく。慌てて言葉を続けた。
「違うんです、動かれると怖いから! 片側だけに座ったら観覧車がちょっと傾きそうで……」
弁明すると柴さんは「びっくりした」と真顔で呟いた。
「ならないよ、観覧車てそんな不安定ちゃうよ」
「そうですよね」
理屈ではよく分かっているのだけど。
「……ダメ?」
ほんの少し首を傾げて、もう一度尋ねられる。これ、確か定員は8人だったろうか。片側に4人乗れるということだ。当たり前だけど、2人が片方に乗って揺れるわけもない。口を引き結んで頷くと、柴さんは安堵したように息をついてから立ち上がっての隣へと動いた。
一人分の距離を空けた所に座られる。紳士だ。同時に柴さんがいなくなったことにより向かいの景色が開けて、ずいぶん高い所まで昇ってきたことに改めて意識が行った。
「高いとこ苦手?」
「そんなことない筈なんですけど……久々に乗ると、ちょっと怖くなりました」
「そういうことあるなぁ。ま、なんかあっても大丈夫や。俺が助けるから」
優しい言葉に、心臓がさっきまでと異なる甘い跳ね方をする。お礼を言おうと見上げると柴さんは手で顔を隠していた。指先で覆い切れていない耳が赤い。
「今の臭かったな」
「いやそんな……いや……」
「微妙なときの反応やん」
「いやいやいや!」
本当に嬉しいのに。それに実際、柴さんは今ここで観覧車が止まったり落下したりしても、問題なくを助けられるだろう。
照れてるところもかわいいな、なんて年上の男の人に思いながらも勇気を出して口を開いた。
「い、いざという時助けられるように、もっと、近くに……座って、ください」
バッと音がしそうな勢いで柴さんが顔を隠していた腕を下げる。まじまじと見てくるのに、じわじわと恥ずかしさが襲ってきて下を向いた。
「そしたらお言葉に甘えて」
少し離れたところにあった大きな体がすぐ隣にやってくる。俯けた視線の先、の靴のすぐ隣に柴さんの革靴が並んだ。もう少し動けば足が触れあいそうな程近い距離にじわじわと体温が上がってくる。
「めっちゃ嬉しかってん、今日会えるって返事くれたとき」
さっきよりずっと声が近い。そろりと隣を見上げるとこちらを見下ろす目とがっちり視線が合って、顔が熱くなった。
「も、誘ってくれて嬉しかったです」
「ほんま? 結構悩んだんやで。バレンタインに会いたいって言ってええ感じなんかなー俺達、て思て」
分かる。も同じように思っていたから自分から連絡することができなかったのだ。
「だから誘うの遅くして、こんだけギリギリやったらもし『もう予定が入ってます』って断られてもしゃあないな、バレンタインには会いたくないって断られたんとは限らなくなるな、とか色々考えてた」
「え、そんなこと考えてたんですね……別に14日なのは偶然で、時間ができたから誘ってくれただけなのかな、とかも色々考えてました」
「この日になんも考えず女の子誘うのは流石に悪い男すぎるやろ」
確かに電話でのお誘いではないのも、数日前ではなく直前に聞いてくるのも、どちらもあんまり彼らしくなくて少し違和感は覚えていた。そんな風に悩んでいたからなのだと知ると、それはひどく──
「──かわいい」
ぽろりと零した言葉に、柴さんはなんともいえない顔をした。
「ええ? それもそれで複雑なんやけど」
納得いかなさそうな声に笑うと、彼も表情を和らげる。そのまま背もたれに腕をかけて、柴さんは外の景色へと目をやった。
「もうすぐ頂上やな」
「あ、本当ですね」
少しずつ緊張も恐怖も薄れ楽しくなってきて、もじっくりとゴンドラの外を眺めた。冬の乾燥した空気により大気が綺麗に澄んでいる。ライトアップされた観覧車のはるか下、の職場の入ったビルやアミューズメント施設の明かりが煌々と輝いているのがよく見えた。いつもは見上げている光が地面に星を散りばめたように世界を照らしている。綺麗だな、とようやく心の底から思えた。
「本当に、今日会えて良かったです」
「な」
昨日、メールが来た後。仕事終わりに急いでデパートに寄り、少しお高めのチョコを買った。仕事用のカバンの底に隠している綺麗にラッピングされたそれを、頂上に着いたら渡そう。そう考えながら、楽しそうに外を眺めている柴さんの横顔を見上げた。