ロマンス・シャワーがあめあられ
好きな人が髪を切った。もういい歳をした大人なのに、そんなちっぽけな事では心をかき乱されている。しかも、彼が髪を切ってからもう数ヶ月経つのにだ。我ながら思春期の学生みたいだと思う。
煉獄は裏の格闘団体だ。外部に情報が漏洩することの無いよう、記録を残すのは最低限にしている。試合の動画や写真を撮るのももちろん禁止で、違反行為を行った観客は出禁どころでは済まない目に遭わされる。ただ、そんな団体でもデータを全く持たないわけにはいかない。闘士の個人情報に戦績、ファイトマネーに収益を増やすための観客データ。そんな、どうしても必要な情報は煉獄の会場にあるパソコンからのみ確認ができ、外部からはアクセスできないようになっている。はそういったデータを管理する部署に所属していた。
人前に立つ仕事ではないから、煉獄の観客達はのような職員の存在を知らないが、闘士の皆さんは試合前にちょくちょくデータを確認しに来るので案外関わる機会がある。想い人であるドネアさんと話すようになったのも、彼が対戦相手の情報を見ようとこの部署に来たからだった。
よりによってが勤務している時にあの絶対王者である“キング”が来るなんて、と最初は本当に緊張した。実際、人を寄せつけない強者のオーラを放つドネアさんは初対面のを圧倒したけれど、だからといって彼が決して冷たい人ではないということは話す内によく分かった。
ドネアさんは冷静沈着で、常に余裕を漂わせている。けれど、決して驕ることはない。強さに胡座をかかず、求道者のごとく常に更なる高みを目指している。言葉を交わす前から試合での姿にそんな姿勢を感じて尊敬はしていたのだけれど、話せば話すほどに彼のその謙虚かつ勤勉な面だけでなく、時折見せる優しさやほんの少し天然なところにも惹かれていく自分がいた。
ドネアさんは元々、少し長めの髪をオールバックにしていた。それも十分格好良かったのだけれど、少し前にその色素の薄い髪を短くしたのだ。そして、新しい髪型はの好みにドンピシャだった。もう好きだと認めてしまおうかな、と思っていた矢先に髪型が変わったのだ。ただでさえ前から気になっていた人が、自分の好みの外見に寄せてくる(もちろんドネアさんとしてはそんなつもり無いだろうが)。最後のダメ押しだ。
さっぱりとした髪型に変わったドネアさんは、惚れた欲目も足せばにはもう世界一格好良く見えたのだった。
さて、土曜日の今日も煉獄の会場では試合が行われている。裏方のは、熱気に満ちたリングから遠く離れた棟で仕事だ。オフィスの天井に吊るされている液晶に映し出される試合中継に時折目をやりつつ、業務を行っていた。ちなみにこの試合映像も当日中しか録画保存されておらず、その録画データも審判が試合中にジャッジの材料とする際見返す以外に用途はない。
時間はお昼時を少し過ぎている。煉獄は一般企業でもないのでそこまでカッチリと昼休憩の時間は決まっておらず、の部署でもお腹が空いたら各々適当に会場内にあるお店にお昼ご飯を食べに行ったり、持ってきたお弁当を食べたりしている。ちょうど今日勤務しているのは外食組ばかりで、彼等がお昼休憩に出ている今、部屋にいるのはだけだった。業務が立て込んでいて少し遅れてしまったけれど、もあと少しだけ仕事をして一区切りついたらお昼ご飯を食べに行こう。そう思ってパソコンに向かっていたところにドアの開く音が聞こえて顔を上げた。誰か昼休憩から戻ってきたのかと思ったのだけれど、ドアの隙間から見えた姿は今日会えるとは思っていなかった人で一瞬息が止まった。ドネアさんだ。
今日彼の試合はないし──ドネアさんの試合日程はしょっちゅうチェックしているので全て頭に入っている──A級のカードも無いから会場に来ているとは思わなかった。何か確認したいことがあって、わざわざ来たのだろうか。
の席は部屋の入り口から遠い。彼から見えない内に、無駄に高鳴る心臓をなだめようと何度か息を吐いた。
入室したドネアさんは部屋全体を見回すこともなく、最初から決めていたようにこちらへと目をやる。すぐにに気づいたようで、そのまま真っ直ぐに向かってきた。よく話しているし、の席を覚えてくれたのかもしれない。知人か、欲を言えば友人のように思ってくれていると自惚れていいのだろうか。
近づいてくる姿に小さく手を振ると、ドネアさんは軽い頷きを返してくれた。
「。来ていたんだな」
の席の前まで来たドネアさんは、いつもと変わらずTシャツに黒いパンツというシンプルな服装をしている。いつもと変わらず格好いい。
「こんにちは! 今日はドネアさん試合無いですよね?」
「ああ。来月の試合について少し確認したいことがあって来た。それより……」
ドネアさんは鋭い目にどこか危ぶむ色を乗せてをじっと見た。
「……最近、体調に問題はないか?」
「はい?」
「よく胸のあたりを押さえて苦しそうにしている。心臓や肺に違和感があるなら早めに医療機関を受診するといい」
座ったまま卒倒しそうになった。
確かには最近よく胸を押さえている。さっきも押さえていた。短髪のドネアさんがかっこよくて、見るたび新鮮に動悸がするからだ。けれど彼が視界に入ってすぐに苦しみ──というと語弊があるが──近づいてくる頃にはなんともないような顔をするように心がけていたから、気づかれていたとは思いもしなかった。穴があったら入りたいとはこのことだ。
その場から逃げ出したい気持ちをなんとか抑えて、笑みを作った。
「お気遣いありがとうございます。なんともないので、ご心配には及びません」
「……そうか」
こちらを見るドネアさんは、ただただ気遣わしげな顔をしている。申し訳ないやら恥ずかしいやらで身の置き所がない。気まずさを消すように急いで口を開いた。
「ドネアさんは優しいですよね。一般職員のことまでよく見てくださって」
これは紛れもない本心だった。がよく胸を押さえていることに気がつくだけでもすごいが、普通闘士でもない、そこまで関わりの無い女がそうしているのに気づいたって「なんかアイツいつも変なことしてるな」くらいに思うだけの人の方が多いんじゃないだろうか。心配までしてくれるドネアさんは本当に優しい。けれど当のドネアさんはの言葉になんともいえない表情をしてから、ぼそりと呟いた。
「……ロロン」
「え?」
「ロロンでいい。そう呼ぶ奴の方が多い」
一瞬、言葉に詰まった。確かに、彼のことを名前で呼ぶ人は多い。けれどそれはあくまで闘士達の話で、のようなスタッフで彼のことをロロンと呼ぶ者はあまりいない。少なくとも、面と向かっては。
本人からの提案にしても馴れ馴れしくないかな、と逡巡するも彼はじっと待つようにこちらを見ている。
「ろ、ロロンさん」
「……ああ」
そっと名前を呼ぶと、ドネアさん──ロロンさんは表情を緩めた。凜々しい眉が少しだけ角度を緩め、口角が上がる。ひどく優しい目で笑いかけられて、甘い痛みが毒のように胸を浸食していく。また胸を掻き毟りたくなるのをなんとか抑えた。
ロロンさんが、あんまりにも優しいから。私も少し勇気を出せる気がする。
「よかったら、ロロンさんものこと名字じゃなくて名前で呼んでください。もしかしたらの下の名前、知らないかもしれないですけど……」
「だろう。もちろん知っている」
知ってたんだ、とか、すぐ呼んでくれるんだ、とか。
そういう理屈での部分を考えるより先に、突然の名前呼びに許容できる範囲を超えたときめきが感情を押し流す。耐えきれずには俯き、心臓のあたりを服の上から押さえた。勘弁してほしい。好きです。
一拍置いてハッと我に返った。こんな、こんな風に本人の目の前で心配された事をしたら。
「ごめんなさい、急に呼ばれてドキッとしちゃって」
言った瞬間また猛烈に後悔した。焦りのあまり口走った言葉はどう考えても音にする必要がなかった。
顔を上げて視界に映ったロロンさんは大きく目を見開いていた。
「今──」
あっ、これは……
「今の、その動きだ。俺がずっと、気にしていた、」
これはまずい。
「今『ドキッとした』と言ったな? 胸を押さえていたのは体調の問題ではなく感情の揺れによるものか」
に尋ねているというより自分の中で確認するような口調だった。既に確信を持った人の独りごち方。
「見る度に胸を押さえていると思ったが、因果が逆か? 俺が近くに居る時に限ってそうしていたのか」
非常にまずい。誰か……
「だが前は違ったよな。がそういう事をするようになったのはここ数ヶ月だ。何がきっかけだ……?」
誰か、今すぐロロンさんかを昏倒させて……!
そう祈るも、都合良くたちの首筋に手刀を食らわせてくれる暗殺者か何かが現れるはずもない。いくらここが煉獄の会場でも、だ。代わりにこの場から物理的に消えようと椅子から腰を浮かせようとするの動作を“キング”は見逃さなかった。足の先まで神経を巡らせほんの少し身動きを取ろうとした瞬間、パシ、と大きな手がの腕を掴む。触れた部分から皮膚が粟立った。
「どこにも行かせる気はない。数ヶ月前……分かったぞ、俺が髪を切ってからだな」
ロロンさんの脳内、猛スピードで点と点が繋がっていくのが目に見えるようだった。名探偵が物語の終盤で真相を暴く時のように、次から次へとの行動のピースを当てはめていく。依然腕の拘束は固いままだ。もうはいくら焦っても逃げることはできず、口にできる言い訳も無い。絶望と共に推理が終わるのを待つ他ないのだ。
少しの間を置いて、ロロンさんはひとつ大きく息をついた。
「合点がいった。髪の短い男が好みか」
終わった……。皆の前で犯人だと暴かれる殺人鬼もきっとこんな気分だろう。名探偵ロロンの前で、真犯人は項垂れるしかない。
最悪だ。気持ちを打ち明けるつもりすらなかったのに、その前に振られようとしている。せっかく名前で呼び合えるようになったのに、もう話しかけてくれなくなるかもしれない。想像しただけで、俯いた視界に映る自分の太ももがほんの少しだけ歪んだ。
友達でいてくださいって、言おう。変にアプローチとかしないから、これからも仲良くしてくださいって。正直すぐには諦めきれないだろうけれど、そう言わないと今あるささやかな会話の機会すら失ってしまう。そんなの、あんまりにも寂しい。
意を決して口を開こうとしたその時、手首を掴んだままだったロロンさんの手がするりと動いた。指先は一度も皮膚から離れず、手の甲を伝っての手のひらに触れる。
「ひっ」
自分とは異なる温度が、感触が、の指の間に入り込む。長く節ばった指をのそれと絡ませて、身をかがめたロロンさんは腕ごとを自分の胸元に引き寄せた。
「ちょっ!! ちょとっ、ちょっとっロロンさん!?」
ようやく目が合ったロロンさんの眼差しから軽蔑も嫌悪も感じられないことに心底安堵しながらも、脳内はパニックに陥っていた。
「やり切れんな、お前が惚れ込んでいるのは俺の外見だけか?」
そう言いながらもロロンさんはひどく楽しそうだった。さっきの優しい笑い方とはまったく異なる、愉悦を含んだ笑みが彼の口元を形作っている。名前を呼んだ時の反応から、それだけでないという自信があるからだろう。そして実際、それは間違いではない。
「うう……顔“も”です、顔“も”好きなんです……!」
やけくそだった。もう好きってこと自体はバレてしまったのだし。全部好きなのに、顔だけでこんな反応をしている面食いだなんて思われたら困る。
言いながら羞恥に耐えられなくなり繋がれていない方の手で顔を隠そうとしたら、そちらまで指を絡めとられた。もう逃げ場がない。より一回り大きな彼に手を引かれ、身体はもう椅子のほんの端にしか乗っていなかった。
「それは良かった。短髪の方が特に好きというわけだな」
落ち着き払って言う姿に恥ずかしさと、ほのかな悔しさが襲った。全部バレている。見透かされている。敵わない。
「もっとよく見たらどうだ。俺は構わない」
「近いですって!!」
「慣れた方がいい。今後はもっと近づけるからな」
ほとんど抱きしめるような近さでこちらを上からのぞき込まれる。のけぞって距離を離そうとすると、片手は案外すんなりと拘束が解けた。消えた温もりに寂しくなる間もなく、ロロンさんは離した手をの頬に添えた。
「特段髪型にこだわりはない。惚れた女がこんなに良い反応をしてくれるなら、しばらく短いままにしておこう」
薄い唇を笑みの形に保ったまま、彼はの額にひとつ口付けを落とす。唇が触れたところから焼けるような心地がした。
「だが、また伸ばしたとしても愛想を尽かしてくれるなよ」
「つ、尽かしませんよ……!」
「そうか、安心した」
そのまま抱き締められて、厚い胸板が頬に触れる。触れたところから感じる振動でロロンさんが笑っているのが分かった。
喉の奥で笑う音は猛獣の唸り声に似ている。
捕食者たる彼から逃げる術は無いし、もう逃げたいとも思わなかった。