形を持たない化け物へ

 正樹君が笑っていないところを見たことがない。今も、彼の顔には文字通り貼り付けたような笑みが浮かんでいる。

「最近、調子はどう?」
「変わりないですよ。変わらず元気です」

 幾度繰り返した問答だろうか。互いに答えを知っていて、それでも続けている。数ヶ月前、彼の養父が亡くなった時でさえ同じ返事をされたのだ。今更何か変わる筈もない。
 診察用のスツールは彼の体躯にまるで合っておらず、腰掛けながらも尻と太腿はほとんど座面からはみ出ている。厚い背はいつも通り鉄板でも入れたように真っ直ぐに伸びていた。何も知らない者が見れば生真面目な彼の性格を表したような姿勢だとでも思うのかもしれない。

 大病院の病院長であったの祖父は、速水勝正の友人だった。より少し年上の、世間を騒がせたあの少年M──目黒正樹が怪我をした際には秘密裏に治療を行い、要請があれば脳まで弄った、見下げ果てた医師。
 父は祖父を嫌って別の道を選んだが、は医者となった。祖父のことは好きではなかったが、人助けとなる職業とその手腕は尊敬していたからだ。だが、彼の所業をもっと早くに知っていれば絶対にこの道を選びはしなかっただろう。明らかに父の方が見る目があったわけだ。元々祖父を道徳的な人間だとは微塵も思っていなかったが、ここまで腐った男だとは思わなかった。クローンを生み出したのは祖父ではないようだったが、詳しい事情など知りたくもない。
 祖父はに目をかけていた。幸運なことには才能に恵まれていたし、何より親族だ。引退を目前にした彼の秘密を引き継ぐのに最適だと思われたのだろう。何かあった時には速水氏の助けになるように、と言い含められた。
 犯罪者の蔵匿幇助に脳改造、クローン人間。聞いた話に強烈な目眩と吐き気を覚えながらも、当時研修医だったは医師を辞めることも、祖父と同じ病院を離れることもなかった。話を聞いたその日に、より一回り近く年下の──まだ子供の速水正樹の姿を見てしまったから。
 それが、数年前のことだった。

 この健診は、が正樹君と出会って数ヶ月して、祖父の担当していた業務を引き継ぐようになってから速水氏に推奨したものだった。クローン人間のような特異な存在ならば、定期的に身体に異常が無いか確認したほうがいい。今は何も無くとも、今後何か不調が出る可能性もある。なんと言っても前例が──が知らないだけかもしれないが──無いのだ。それに、オリジナルの目黒正樹のように狂気が暴走しかねないかも問診で確かめた方がいい──そう提言した。速水氏は記録が残ることを好まず血液検査と尿検査、そして問診くらいしか許してくれなかったが。
 研修医の分際で主治医のように正樹君を診ている事に何か言ってくる者はいなかった。祖父の存在があっただけでなく、正樹君はできるだけ人目に触れないように来院していたからだ。が専門医となった今も、それは変わらない。

 元より彼が羊のドリーのように脆い存在だとは思っていなかったが、それにしても丈夫に育ったものだ。今のところ、正樹君は異常無いどころか健康体そのものと言っていい。初めて会った高校生の頃から大柄だったが、最近は更に迫力を増している。結局、毎回簡単な健診を済ませた後は、問診というよりもただただ正樹君が特に問題なく穏やかに日々を過ごせているかを確認するための場となっていた。
 これは、クローン人間が造られているという非道な所業を知っていながら告発するわけでも完全に背を向けるわけでもない自分の罪悪感を薄めるための、浅ましい、贖罪に似た行為だ。彼を気にかけているようでその実、心の安寧を保つための自己防衛に近い唾棄すべき偽善だ。分かってはいたが、はそれ以上のことを何もできずにいた。
 少し意外だったのは、速水氏が亡くなった後も正樹君が変わらず月に一度この場所への訪問を続けていることだった。自分がすこぶる健康なことは彼自身が一番よく分かっているだろう。健診を命じた父がいない今、特に続ける理由はない筈だったが、それでも彼は毎月ここに来ている。

「3年の内に単位は全部取って今年の授業はゼミだけですし、時間はあるかと思ってたんですけどね。意外と忙しいです」
「そうなんだ。忙しい中来てくれてありがとう」

 妙だと思いながらも、速水氏の死後数回会う内に薄々感づいていた。たかが月に一度。されど月に一度。そう高頻度の面会でないとはいえ、もう長い付き合いになる。この数ヶ月で、は言葉にできない違和感を正樹君に感じていた。染み出すように、滲み出すように。彼の笑顔の後ろから、何かが滴り落ちようとしている。
 合わせている目は黒く丸い。感情は読めないが、愛想良く上がった口角はいつもと変わらないはずだ。それなのに呑み込まれそうな危機感が背を這って離れない。ふわふわのぬいぐるみは愛らしく膨らんでいて──綿の代わり、その中には溢れるほどに蠕虫が蠢いている。ほつれ目から覗いたそれは内蔵のように溢れ出す。そんな想像が度々浮かんだ。
 それでも無理矢理そんな幻影を振り切りいつもと変わらず他愛の無い会話をしている途中、正樹君は「そういえば」と切り出した。

「知ってました? 僕の身体、二つ爆弾が仕掛けてあったんですよ」
「え?」
「あ、やっぱり知らなかったんだ。僕もつい最近知ったんですけど、安全装置として父が埋め込んでたんです。色々あって、父が亡くなった後に知り合いのお医者さんに取ってもらいました」

 平然とした顔で告げられた怒濤の情報に呆けながらも点と点が繋がった。道理で速水氏は健診時にMRIなどを行うことを許可しなかったわけだ。が正樹君のことを気にかけていたのは気づいていたろうし、爆弾のことを知れば何か言うと思ったのだろう。そして恐らく、の祖父も爆弾の存在を知っていた。信じられない下衆共だ。

「あのクソ野郎共……」

 歯を食いしばって唸るのに正樹君は「わあ」と声を上げた。

「先生もそういう言葉使うんですね」
「……ごめん、汚い言葉を使っちゃったね」

 どうしようもない犯罪者でも、正樹君の養父だ。色んな意味で彼の前で使うべきではない言葉だった。謝るのに正樹君は困ったように頬をかく。

「もう21ですよ、僕。成人してますし、子供扱いしなくても」
「まだ大学生でしょう」

 ギリギリまだ、といったところだが。あと数ヶ月で正樹君は22歳になり、それから半年もすれば社会人になる。それでもできるだけ、彼を庇護対象として扱いたかった。ただののエゴだとはよく分かっていたが。
 それにしても、何故速水氏は正樹君に爆弾のことを教えたのだろう。どう亡くなったのかは知らないが、今際の際に改心するような殊勝な男だったとは思えない。誰か他に、爆弾のことを知る者がいたのだろうか。
 考え込むうちに会話が途切れる、その数秒。気まずささえ覚えないほどのその短い間に、正樹君が息を吸い込むのが聞こえた。

「父を殺したの、僕なんです」

 瞬間すべての音が消える。キンと静寂が鳴った後、一拍を置いてじわりと日常の喧噪が戻ってきた。
 遠くの方で、虫の羽音のようなノイズが響いている。耳鳴りが世界に靄をかける中、は意味も無く彼の着ている黒いポロシャツの胸元あたりを見つめた。

「あれ、あんまり驚かないんですね。爆弾の事よりびっくりするかと思ってました」
「……そうじゃないかとは思ってた」
「はは、傷つくなあ」

 朗らかな笑い声が頭の内でわんわんと響く。頭を俯けて、はぼんやりとリノリウムの床を目に映した。速水氏はの祖父と同じかそれ以上の悪人だ。彼が殺されたことに悲哀や同情の念はない。ただ、正樹君が人を殺したという事実が疼痛のようにを苛んだ。

 どうすれば良かったのだろう。もっと面会の頻度を増やし、気にかけてやるべきだった? 会う度に、牧師のように説教でもしてやればよかった? 自問自答しながらも、答えは分かっていた。何も変えられなかったろう。正樹君は賢い。物を知らないわけでも、道理を知らないわけでもない。同年代の者より余程分別がある。──ある上で、それを踏み越え堂々と禁忌を犯している。こんなことを言いたくはないが、“そういう性質”が彼に元より宿っていたと言うほかないだろう。それでも、どうしようもなく苦しかった。
 繭のまま息の根を止めることも、蝶へと変えてやることも叶わなかった。あの日制服姿の彼に抱いた中途半端な同情は何も為さず、床の上、物言わず転がっている。

「……が警察に言うかもしれないとは思わない?」
「思ってないです。先生は優しいですから」
「はっ」

 空気が漏れ出して、形になりきらない咳めいた笑いが喉を通る。が本当に優しかったら、もっと早くに君のお父さんのことを警察か何かに伝えてたよ。君をあの男から引き離して、姉か何かみたいに面倒を見てやっていたかもね。邪魔されずに出来たかどうかは別として。自嘲から漏れた笑いに正樹君は何も言わなかった。
 警察に話しても証拠なんて無いですから、などと言うのではないかと思っていたのだ。実際、その通りなのだし。それなのにの意思の話をする。何故こんな話をするのだろう。何も分からなかった。彼の真意も、に対する信頼なのか何なのか分からない感情も。

「しばらく卒論やインターンで忙しいんです。多分、就職してからも半年くらいはそうじゃないかな」
「……は?」
「月一でも時間が取れるか分からなくて。来れないあいだ貴方に忘れられないように、ちょっと強めの秘密の押しつけきょうゆうです」

 の疑問を読んだかのような言葉だったが、その意味はまったく理解ができなかった。強めの頭痛が襲ってきて、眉間を押さえて揉みほぐす。

「忘れるわけないでしょう、そんな短期間で」
「念には念を、ですよ」

 どこまでも穏やかで朗らかな、いつもと変わりない声。むしろ常より落ち着いているほどだ。一体どんな顔をしてこんな話をしているのだと思って逸らしていた視線を上げると、正樹君は真っ直ぐにこちらを見ていた。ずっと、ずっと見ていたのだろう。
 貼り付けた笑顔は脱ぎ捨てられていた。邪魔な拘束を抜け出し、解放され剥き出しにされた深淵から、不定形の狂気が零れ出している。縮小した瞳孔から、滂沱として流れ落ちる。
 正樹君は変わったのではない。ただ、隠すのをやめたのだ。少し前から少しずつ、の前で本当の自分を見せようとしていた。そう分かっても、不思議と恐怖も嫌悪も湧かなかった。悍ましいとも感じない。ただ、痛ましいとは思った。

 黒い瞳から、見えない触手が舌のように伸びる。の首へと絡みつく。昏い場所へと引きずり込む。
 喉元を締めつける妄想に、一つ喘ぐように息をした。

「……忘れないよ、ずっと」

 の返事に、正樹君は涙を流しながら笑みを深めた。